「五輪書」から学ぶ Part-24
【水之巻】有搆無搆のをしへの事

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   五輪書から】何を学ぶか?  

 若い頃には、どんな構え方が良いのか、随分研究もしました。空手の場合は、両手両足、場合によっては、頭突きまで、どこから攻撃があるか判りません。

 いつの間にか、構えの事は考えないようになっていました。

 私が若かったころは、まだ流儀によって、立ち方も、構え方も特徴のあるものでした。それぞれに勝つ利があり、立ち方や構え方が出来たのではないかと思います。
 ルールが整備され、安全性が確保されるにしたがって、自然に淘汰され、現在では、流派間の差は、殆ど無くなった感じがします。

 それでも、一度は、構えとは何かを、探求する機会を、持った方が良いのではないでしょうか。

 構えを準備姿勢、又は、準備態勢あるいは、準備体制と考えたら、きっとビジネスの世界でも、趣味の世界でも、ふと合点のいく事に気が付くのではないでしょうか。

【水之巻】の構成

 1. 水之巻 序           
14. 有搆無搆の教の事
15. 一拍子の打の事
16. 二のこしの拍子の事
17. 無念無相の打と云事
18. 流水の打と云事
19. 縁のあたりと云事
20. 石火のあたりと云事
21. 紅葉の打と云事
22. 太刀にかはる身と云事
23. 打とあたると云事
24. 秋猴〔しゅうこう〕の身と云事
25. 漆膠〔しっこう〕の身と云事
26. たけくらべと云事
27. ねばりをかくると云事
28. 身のあたりと云事
29. 三つのうけの事
30. 面〔おもて〕をさすと云事
31. 心〔むね〕をさすと云事
32. 喝咄〔かつとつ〕と云事
33. はりうけと云事
34. 多敵の位の事
35. 打あひの利の事
36. 一つの打と云事
37. 直通〔じきづう〕の位と云事
38. 水之巻 後書
『原文』
14.有搆無搆のをしへの事 (原文を下記のルールに従って加筆訂正あり)
 有搆無搆といふは、太刀を搆ゆるといふこと、あるべきことにあら。されども、五方に置くことあれば、搆へともなるべし。
 太刀は、敵の縁により、ところにより、景気に従ひ、いづれの方に置きたりとも、その敵斬りよきやうに持つ心なり。上段も、ときに従ひ、少し下る心なれば中段となり、中段利により少し上ぐれば上段となる。下段、おりにふれ少し上ぐれば中段となる。両脇の構へも、位により少し中へ出さば、中段・下段ともなる心なり。しかるによつて、搆へはありて搆へはなき、といふ利なり。
 先づ、太刀を取りては、いずれにしてなりとも敵を斬るといふ心なり。もし敵の斬る太刀を、受くる・張る・当たる・粘る・触るなどいふことあれども、みな敵を斬る縁なりと心得べし。受くると思ひ、張ると思ひ、あたると思ひ、粘ると思ひ、触ると思ふによつて、斬ること不足なるべし。なにごとも斬る縁と思ふこと肝要なり。よくよく吟味すべし。
 兵法大きにして、人数立てといふも搆へなり。みな合戦に勝つ縁なり。居着くといふこと悪し。よくよく工夫すべし。

加筆訂正のルール
                 *仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一
                 *漢字は現行の字体に統一
                 *宛て漢字、送り仮名、濁点、句読点を付加
                 *改行、段落、「序」「後記」を付けた

 『現代文として要約』

 14. 有搆無搆の教えの事

 構えがあって構がないというのは、刀を構えるということがあってはならない。しかし、五方に刀があれば、構えに必然的になる。
 刀は、敵との関係で、場所や勢いに対処して刀の置く場所が決まるので、その時に敵を斬りやすいように刀を置く気持ちである。上段も少し下げれば中段となり、中段も勝機に従って少し上げれば上段の構えとなる。下段にしても、その時々で少し上げれば中段となる。両脇の構えも、状況により少し中へ出せば、中段や下段にもなる。したがって、構えはあって、無いものという考えである。
 まず、刀を取れば、敵を斬ることを第一に考える。もし、敵の刀を受ける・撥ねる・当てる・粘る・触るなどという事があっても、それはみんな敵を斬る機会となると心得るべきである。受ける、撥ねる、当てる、粘る、触ると思うと、斬る事が疎かになる。どんな時も斬る機会であると思う事が肝心である。よく心に置く必要がある。
 兵法とは、合戦の場合に多くの人数を配置するが、これも構えである。これはみんな合戦に勝つためであり、滞るという事が悪い。よく研究すること。

 『私見』
 
  五方の搆の事で、早々と、「空手に構えなし」と言いましたが、空手においても、全く無防備になる事を言っているのではありません。相手の心の動きや、微妙な体の動きに反応して、動きやすい位置に、手を置き、足を置く事が、必然的に構えとなると言う意味です。
 よく、相手を誘うために、あえて隙を作る人を見かけますが、ここで言う構なしと言うのは、その事とは意味合いが違います。
 たとえ隙を作る場合においても、必ず相手の動きに、最速で対処できる位置に、手や足があるべきと思っています。でなければ、隙を作ったが、本当の隙であったと言う事になってしまいます。

 剣術の場合でも、空手の場合でも、0.何秒という、反応時間よりも速く、相手の攻撃が届きます。自分が置く場所を五つと決めて、常に稽古を積み、相手の動きに無条件で反応できる所に手がある状態を、武蔵は「構え」と名付けているだけだと思います。

 ここで大切なのは、相手から見て「構え」であっても、自分は「構え」ている気持ちはなく、相手に対応できる場所に、意識しないで「構え」ている。そして、そこから相手に対処するさまざまな攻防の術は、決してその技術を上手くしようとするのではなく、すべて、相手に勝つためにしなければ意味がないと思います。

 たまたま、組織の上で上司である場合がありましたが、どんなに優れたアイデアであっても、どんなに優れた技術であっても、それが契約に結びついたり、仕事を完遂する事が出来なければ、無意味なのです。役に立って、初めて能力を評価する事が出来ます。一言で言えば、成果主義が一番大切なのです。ただ、能力が高い人も、幾分か劣る人も集まって組織は形成されていますから、やる気をなくすような管理者では、管理者失格と言わざるを得ないでしょう。武蔵の言う、大の兵法の難しさが、ここにあると思います。 

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.


 
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