「五輪書」から学ぶ Part-29
【水之巻】縁のあたりと云事

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   五輪書から】何を学ぶか?  

 「縁」と言う言葉で、太刀筋を説明している事にも、武蔵の非凡さが伺えるのではないでしょうか。
  【縁】についてでも、偶然と縁という、生じた事柄に対する受け止め方を書きました。

 ここでは、なぜ武蔵が、偶然とも思える事柄を、あえて、「縁」と言ったのか、原文ではかなり短い言葉で語っていますが、勝負の岐路になるとも思われる、理論構築、カリキュラムが内在されています。

 現代の社会生活でも、偶然と思うか、これは縁だと思うかによって、大いに結果が違うようにも思っています。

 しかも、その言葉は、単に「縁」と考えよう、と言った、「ものは言い様、捉え様」と言った類ではありません。心底、縁と感じるよう稽古して体得する事に意味があるように思います。

【水之巻】の構成

 1. 水之巻 序           
19. 縁のあたりと云事
20. 石火のあたりと云事
21. 紅葉の打と云事
22. 太刀にかはる身と云事
23. 打とあたると云事
24. 秋猴〔しゅうこう〕の身と云事
25. 漆膠〔しっこう〕の身と云事
26. たけくらべと云事
27. ねばりをかくると云事
28. 身のあたりと云事
29. 三つのうけの事
30. 面〔おもて〕をさすと云事
31. 心〔むね〕をさすと云事
32. 喝咄〔かつとつ〕と云事
33. はりうけと云事
34. 多敵の位の事
35. 打あひの利の事
36. 一つの打と云事
37. 直通〔じきづう〕の位と云事
38. 水之巻 後書
『原文』
19. 縁のあたりと云事 (原文を下記のルールに従って加筆訂正あり)
 われ、打ち出すとき、敵打ち留めむ、張り退けむとするとき、われ、打ち一つにして、頭をも打ち、手をも打ち、足をも打つ。太刀の道一つを以ていづれなりとも打つところ、これ縁のうちなり。
 このうち、よくよく打ち習ひ、なんどきも出合ふ打ちなり。再々打ち合ひて、分別あるべきことなり。
加筆訂正のルール
                 *仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一
                 *漢字は現行の字体に統一
                 *宛て漢字、送り仮名、濁点、句読点を付加
                 *改行、段落、「序」「後記」を付けた
 『現代文として要約』

 19. 縁のあたりと云事

 自分が打ち出す時、相手は受けとめ、弾こうとする時、自分の打ちは一つにして、頭も手も足も打つ。太刀筋は一つで、どこでも打つ。これが縁の打ちである。
 この打ち方、よく稽古して習うことで、何時でも使える打ち方である。反復練習して会得するべきである。

 『私見』

 昔の言葉遣いなのか、「縁」という言葉を使っている所に、武蔵が言おうとする所があるのではないでしょうか。

 普通に考えれば、自分が打とうと思う所が、相手の動きによって変わってしまった場合、自分の本来の目標が無くなってしまい、たまたまそこに違う標的が現れたら、これを、偶然と言うのではないでしょうか。

 しかし、この偶然を、千載一遇のチャンス(縁)と捉える所が、実に「勝つ利」であると思います。すなわち、一旦打ち出した剣に、曇りが生じないようにしなければ、心にも、太刀筋にも迷いが生じ、折角のチャンス(縁)を逃してしまいます。写真は、自由組手で、7段礒田師範(左側)がチャンスを生かして、飛び込みざま、上段左刻み突きをした一瞬です。】

 実際には、非常に難しい事だと思います。空手の場合でも、自分が突きや蹴りを出して当たる前に、受けられると判断できる場合が、殆どです。
 私のは場合に限定して言いますが、その突きや蹴りを緩めず、反って強く突き込む事が多いです。理由は、諦めてしまうと、相手の反撃を受けると感じるからです。
 突き込むことで、相手の態勢を崩すことも出来る場合が多いのです。しかし、これも、途中で気持ちや態勢を緩めてしまうと、相手の術中にはまってしまいます。

 途中で計画が崩れてしまっているのに、次の目標を直ぐに見つけて、邁進できる技能と体力、そして何より心が折れない事が成功の鍵と言えるでしょう。

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.


 
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