独行道を読む
【道尓於ゐて八死をいと王寸思う】

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【出典:熊本県立美術館 所蔵品  データベース   独行道】

 道尓於ゐて八死をいと王寸思う】『道に於いては死をいとわず思う』と読んで見ましょう。

[尓](に) [八](は)  [王](わ) [寸](ず)

 道と言うのは、「兵法の道」であることは、確かです。宮本武蔵の『独行道』ですから。
 意味する所は、難しい事ではありません。何かの道を歩むという事は、どんな道でも、命懸けである事には変わりありません。

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 特に、命を懸ける事が目的である、兵法ですから、ごくごく当たり前の事だと思います。

 なぜ、武蔵は、こんなにも自明な事を、あえて『独行道』に載せたのでしょう。

 私は、なぜ空手道と言う武道に、惹かれたかを書いて見る事にします。それが、答えになるかも知れません。

 命懸けと言うのは、山登りやF1ドライバーなどだけでなく、例えば安全と思えるような球技やダンスでも、場合によっては危険を伴います。

 仕事でも、ある意味命懸けで取り組まなければ、生活できるとは限りません。
 ただ、道を歩いているだけでも、後ろから車が突っ込んでくるかも知れません。家でのんびり寝転んでテレビを見ている時に、地震が来て、家ごとペチャンコになるかも知れません。

 世の中には、いや、生きていると、何時危険な目に遭うか、分かりません。
 それでも、人は危険だとは思わないから、生きていけるのです。

 私が、空手道に惹かれたのは、危険である事を承知したうえで、相手と向かい合う事に、恐怖を感じたからです。

 色々のスポーツを経験しました。器械体操をしている時は、鉄棒から手が離れ、床に叩きつけられた事もありました。
 平行棒から真っ逆さまに落ちた事もありました。それも一度や二度ではありません。
 冬山で吹雪に遭い、視界が無くなり、もう少しで谷底に落ちそうになった事もあります。
 あるときは、自動車の運転をしていて、三回転して、土手から落ちた事もあります。
 危険な思いは、いやというほど、体験しました。痛い思いも数多く体験しています。右手首は未だに折れたままですので、時々疼きます。
 それでも、すべて、過去形なのです。ああ、痛かった。ああ、怖かった。で、普通の生活に戻ってしまうのです。

 空手道は、相手と向かい合ったその時に、恐怖心を味わいます。その恐怖を越えなければ、戦う事ができないのです。もちろん、車に乗っても、山に登っても、目の前の恐怖を、乗り越えなければならない事は同じです。しかし、危険が偶然なのと、必然であるのとでは、感じ方がに違いがあります。危険な目に遭うかも知れない、と、危険な目に遭う、との違いです。

 空手道には、あえて危険に向かい合う覚悟が必要です。そんな、非日常が自分を作ってくれると信じています。

 武蔵は、あえて危険に向かう覚悟のために、『道に於いては死をいとわず思う』と、戦いにあって不動の心を持つために、心に誓を立てたのだと思います。

 ですから、空手道も、富名腰義珍翁が考えられていた通り、組手は出来ないのだと思っています。ですから、今私が道場で、基本組手の重要性を説いているのは、相手をつけて稽古できるのは、基本組手か基本一本までだと思うからです。それ以外の自由一本も、三本組手も、自由組手も、競技用の組手も、本来の武道の持つ精神性、私の道場では「髓心」を知る事は出来ないのです。

 その理由を知る事も、「守破離」の過程と知るべきでしょう。

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

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