独行道を読む
【佛神八貴し佛神越太のま須】

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【出典:熊本県立美術館 所蔵品  データベース   独行道】

 【佛神八貴し佛神越太のま須】『仏神は貴し仏神を頼まず』と変体仮名を平仮名に替え、新漢字を当てて見ました。今では、神社やお寺には、冠婚葬祭か初詣、あるいは、祈願と足を運びますが、信心があるかは、疑問です。

[八](は) [越](を)  [太](た) [須](ず)

  空手道という武道「煩悩からの脱却」新渡戸稲造氏がベルギーの法学者との会話の中で、「日本には宗教教育がない」と話したところ、「宗教なしで、どうやって道徳教育をするのか」と驚かれた。』と、書きましたが、武蔵の時代には、まだ新渡戸稲造氏が言う、武士道は確立されていなかったように思います。武蔵が言うように、気高い存在であったのでしょう。

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 それでも、武蔵は、すがる事はない。と言い切ります。映画では、吉岡一門との闘いの前に、神社の前で、一礼はするものの、頼みごとをせず、戦いに向かう場面が、鮮烈に甦ります。

 ここでも、映画の印象からか、武蔵が後ろ髪を引かれるような気持ちであったように思ってしまいます。

 『独行道』にも挙げているのは、やはり、頼みたい気持ちは、山々ではあるが、自らの兵法の利を信じて、振り切ったのではないでしょうか。

 人間武蔵を彷彿とさせる一条ではないでしょうか。この条だけではないですが、色々な兵法に対する弊害が、頭を過りながら、ことごとく、斬捨てて行く様は、正に武蔵の兵法そのものではないでしょうか。

 武蔵は、決して、氷のように冷たく冷酷な考えの人では無かった事が、『独行道』から読み取る事が出来ると思います。冷酷ではなく、冷徹な判断が出来る智慧のある人だと思います。
 冷徹はよく誤解されますので、辞書を調べておきましょう。
 デジタル大辞泉(小学館)では、感情に左右されることなく、冷静に物事を見通すこと。また、そのさま。となっています。

 ただ世間では、一見冷徹に見えても、その実は冷酷な人がいる事も事実です。

 冷酷な人と、冷徹な人の違いは、視野が狭いか、広いかによります。自分本位で判断する人は、大抵冷酷です。
 冷徹な判断をする人は、大所高所から判断するので、もし自分が判断の対象なら、自分に対しても公平公正な判断ができる人で、自分が悪い場合にも適正な判断を下し、責任を取れるのだと思っています。
 自分に対しても、冷徹にものを判断できる目を養う為には、常に自分及び自分に関係する人に対しても、客観的に見る習慣を身に付ける事だと思っています。要するに「依怙贔屓」や「色眼鏡」で物を見る目を持たない事です。

 私のように信仰心がない場合は、神仏に対して、願いを聞き入れてくれる対象として見ていませんので、当然、願い事をしたり、頼ったりすることはありません。ただし、風習やゲン担ぎで、厄払い的な儀式は、お願いしています。そんな分けで、節操はまったくありませんが、頑なに宗教に対して、拒否するような事もありません。

 しかし、『貴し』が、敬うべきものかどうかは、判断に困りますが、けだかい、とか、高貴であるという意味を考えると、歴史的な存在として貴重なものとして、神社、仏閣を考えるように、自然に見に付いているのではないかと、思っています。理屈ではなく、この国に生まれ育った、代々受け継がれている慣習などが、DNAに埋め込まれているのかも知れません。

 ちなみに、当道場も、八剣神社の境内から始まり、若宮八幡大神宮を本部道場として、現在も活動しています。ですから、敬う必要があるのかも知れません。
 私は、若い頃から、高野山の仏閣にも縁がありましたし、神社にも縁があり、神仏に守られてきたのかも知れません。

 学生時代は、朝の練習は、千葉県市川の真間山 弘法寺で朝四時から稽古していました。卒業して一旦は大阪に戻りましたが、仕事で千葉に引っ越した時も、朝は、正中山 法華経寺の境内で稽古していました。何かにつけ、切っても切れない縁があるようです。

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

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