まだ、記憶に新しいですが、「面従腹背」を座右の銘にしていると、臆面もなく公言した輩がいました。それも日本では最高の大学と呼ばれる東京大学を卒業したそうですね。
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「面従腹背」という言葉を、自分を正当化するために使った人を初めて見ました。ちなみに、面従腹背とは、「うわべは従順にみせかけ、内心では従わないこと」(出典:『大辞林 第三版』三省堂.)と言う意味で使われ、権力者に言葉巧みにすり寄って、立身出世を企てる人の事を揶揄して使う事が多いと思います。同じような言葉に「面従後言」という言葉もありますが、同じように面と向かっては媚び諂[へつら]い、陰で悪口を言う事を言います。
「面従腹背」を座右の銘と言えると言うのは、正直者と言う事も言えますが、これを聞いた過去の上司は、どんな気持ちで聞いたのでしょう。
歴史的な観点から見ると、このような人が稀であったと言い難い事は確かです。もちろん、現在でも心の中では「面従腹背」や「面従後言」が当てはまる人がたくさんいる事は否めません。しかし、言葉に出して言う事でもないと思います。
もしかして、遠藤周作著作の「鉄の首枷 – 小西行長伝 (中公文庫)
前回同様原文は、下記のバーをクリックすると見る事が出来ます。
漢文では『懲悪勧善 古之良典 是以无匿人善 見悪必匡 其諂詐者 則為覆国家之利器 為絶人民之鋒釼 亦侫媚者対上則好説下過 逢下則誹謗上失 其如此人皆无忠於君 无仁於民 是大乱之本也』です。
では、読み下す事にします。『悪を懲し善を勧むるは 古の良き典である。是を以て人の善を匿さ无、悪を見て必ず匡せ。その諂い詐く者は、則ち国家を覆す利器であり、人民を絶つ鋒剣為。亦佞しく媚びる者は、上に対しては則ち好んで下の過ちを説き、下に逢いては則ち上の過ちを誹謗る。その如き此れ人は皆忠无く、民に於いて仁无し。是は大乱之本也』と読みました。
また、現代文にすると、
この文章を読んで最初に頭に浮かんだのが、冒頭の『座右の銘の件(くだり)
』です。この条文を絵に描いたような事柄です。しかも、元文科省の官僚であり、 文部科学省大臣官房総括審議官、文部科学省官房長、文部科学省初等中等教育局局長、文部科学省文部科学審議官、文部科学省事務次官などを歴任した人が言った言葉ですから、聖徳太子は預言者でもあったのかと、思うほどです。しかし、権力者や上司が礼節のある人とは限らないのが世の中です。ですから、十七条憲法を示して訓戒としたのだと思います。
私も、そんな人間関係には閉口した時期がありました。ですから、『面従腹背』になる気持ちが分からないではありません。特に良い大学を出て、出世街道をまっしぐらに歩む人達に、その道を変える事は容易な事ではありません。逃げ場のない所で、上司の下で働かざるを得ない人達にとって、『座右の銘』としてじっと我慢をし、耐えてきた人生だったのでしょう。
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私も、若い頃から、人間関係では特に思い悩む事が、多かったのではないかと、思っています。しかし、人間関係で苦労するのは、自分だけではないのだろうとも思っています。
私は、『面従腹背』という気持ちを持ったことはありませんが、『仕事に徹する』事で、この思いを解消してきました。屁理屈に聞こえるかも知れませんが、『仕事』と言う文字を『事に仕える』と意味づけしていました。どういう意味かと言いますと、人に仕えるのではなく、事、すなわち、与えられた事に対して、仕えようと思ったのです。仕事自体に感情はありませんし、自分の気持ちを害する言動もありません。仕事に専念する事で人間関係から脱却する事ができたように思いました。
面白いもので、仕事に専念すれば結果に現れます。そしてその結果を評価する側は、また違った接し方をしてきます。すると、意外と人間関係は改善されます。
逆の場合もあります。自分が上司の立場で気を付けた事は、部下の出来る方法を探してみる事を優先しました。自分の出来る方法が、人に合っているかは分かりません。
山本五十六氏(第二次世界大戦時、最終階級元帥海軍大将)の「やって見せて、言って聞かせて、やらせて見て、ほめてやらねば、人は動かず。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」は、上司になったら一度は読んで見る価値はあると思います。
人間関係に悩む事と『礼と節』に、どんな関係があるのかと、思われると思います。これが意外と密接な関係があると思うのです。
『衣食足りて礼節を知る』という言葉は、聞いたことがあると思います。『礼節』と言うのは、人間が持つ事のできる余裕だと思うのです。動物は、「礼節」が無くて、他の動物を襲うわけではありません。生きる為に他の動物を襲います。あるいは、身の危険を感じて襲い掛かります。いわゆる食物連鎖です。ところが人間の場合は、たとえ空腹であっても、心の余裕で空腹を我慢する事もできます。残念ながら人間は、逆もやります。ですから、心の持ち方か大切なのです。
人間関係に心が囚われていますと、心に余裕ができません。相手に対する「礼節」に欠ける事もままある事だと思います。
この心に余裕を持たせる事と、『礼と節』の起こりに密接な繋がりがあり、特に武道には、必要欠くべからざるものと思っています。