『礼と節』を表現してみよう。 Part-29 4. 『礼節』として伝えられている作法-----【立てるという事】

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『礼節の作法』目次
1.礼の仕方  座礼  立礼
2.食事の仕方   和食  洋食
3. 座席の順序
4.ビジネスマナー  名刺  時間  文書  続文書   続続文書
5. 参列の仕方
. しつけ
7. 和室での礼儀
8. 洋室での礼儀
9. 同席の仕方
10. 気配り
11.立てるという事
 「立てる」と言う言葉には色々な意味がありますが、ここでは、『礼節』に適っている「立て方」を考えて見る事にします。

 『礼節』と言うのは、聖徳太子の十七条憲法から考えますと、元来自由気ままな人間が、いかに争うことなく、平和に暮らしていく事ができるかについて熟慮して生まれた訓戒から、考え方を共有させた後、長い年月歴史のフィルタを透して生まれた、作法であり、守るべきルールであると思っています。

 その中に果たして「立てる」という事が含まれているのでしょうか。この目次は私がそれこそ自由気ままに作った目次です。何かの『礼節』や『マナー』の教本に載っているものを引用したものではありません。
 私が「立てる」という言葉を取り上げたのは、船越義珍師の「謹慎謙譲空手道最大の美徳」が『礼節』の基本ではないかと思うからです。

 自分が自分がと言う、自己主張型の風潮が横行しすぎていると思います。『礼節』の目的はあくまでも、人の意見を聞く事から始まると思います。ですから、人を『立てる』事を知らなければならないと思うのです。
 前にも書きましたが、戦後の教育によって行き過ぎた自己中心的な考え方を改めても良い頃ではないでしょうか。

 世の中が不平等であるという事を、社会に出て初めて知るような教育は、果たして子供の為になるのでしょうか。公平公正と言う理想は失ってはならないと思いますが、現実に合わせた教育を受けて育たないと、大人になってから、余りにもストレスが多く、その事に耐えられない人を輩出することにならないでしょうか。バランスが大切だと思うのです。公平と平等は違うのですから。

 この写真は、『盆栽』です。いまや世界に広がっていると聞きます。日本が生んだ文化です。この盆栽は、ただ自由奔放に育てる分けではないそうです。色々なルールの中で、このように仕立てていくのだそうです。この仕立てる事に意味があるという事です。しかも、人工的な様子が少しでも見えると評価は下がると言います。正に『礼節』と同じで、これ見よがしの見せ方をしない事も日本の文化として相応しいのではないでしょうか。奥ゆかしいところが、とても日本的であり、『謹慎謙譲』を顕しているように思えます。

 《「論語」公冶長から》物事の一部を聞いただけで全部を理解できる。賢明で察しのいいことのたとえ。一を以て万 (ばん) を知る。(出典:デジタル大辞泉 小学館.)この「一を聞いて十を知る」事も、論語を紐解いてみますと、孔子が子貢(高弟)に、回(高弟)と子貢のどちらが優れているかを聞いたところ、子貢は「回は一を聞いて十を悟りますが、私などは一を聞いて二を知るだけです」と答えたところ、孔子は自分も同じであると言われたとあります。
 この言葉はことわざ辞典にも、賢者である事を意味する言葉として載せてありますが、私は、孔子と子貢の謙虚で相手を「立てる」事で反ってその優秀さを垣間見る事ができると思いました。

 随分前になりますが、テレビの番組で太鼓持ちと言う、今では数少ない人が出ているのを見た事があります。
 太鼓持ちと言うのは、幇間ともいい、「宴席などで遊客の機嫌をとり、滑稽な動作・言葉によって座をにぎやかにすることを職業とする男。たいこもち。男芸者。」(出典:大辞林第三版 三省堂.)とあります。この人達は、芸を身につけ師匠と呼ばれる事もあると聞きますが、目的は宴席を盛り上げるための職業です。

 私が残念に思ったのは、賢さが鼻につく事です。お笑い芸人でも賢さが表に出ると興ざめします。私は、太鼓持ちやお笑いを職業にする人は、賢くなければ出来るものではないと思っています。反って何々先生と呼ばれる人より数段優れていなければ、このような職業を全うすることは出来ないと思っています。いわゆる「謹慎謙譲」です。だからと言って、卑屈になってペコペコしすぎるのもよくありません。「立てる」という事は、なにもへりくだって平身低頭する事ではありません。
 相手を「立てる」職業の人が少しでも謙譲の美徳を忘れた時に、魅力がなくなってしまいます。

 若い頃は、キャバレーやクラブと言う所へ、先輩や先生に連れて行ってもらったことがあります。しかし、本来お客を立てる事がプロである筈の人達の、如何に『礼節』に欠けているかに、ガッカリした記憶があります。一流の店では無かったのかも知れませんが、それでも銀座や大阪では北新地などでも同じような客扱いでした。なんと、プロ意識に欠けた人達だと思ったものです。

 前回の「気配り」と同様、『礼節』に欠けると、なんとも陳腐になってしまうのが、人の『立て方』です。大切なのは、「気配り」の所でも掲載しましたが、大切な事なので、もう一度掲載します。

『足も手も 皆身につけて 使うべし 離れば人の目にや立ちなん』
『無躾は 目にたたぬかは 躾 とて 目に立つならば それも無躾』
『仮初(その場かぎりのこと)の 立ち居にもまた すなおにて 目にかからぬぞ 躾なるべき』
(出典:小笠原敬承斎(1999) 『美しいふるまい』株式会社淡交社.)

 この三首の歌にある目立つという事が、折角『礼儀』を尽くしても無にしてしまう事を覚えておかなければなりません。

 では、私が人を立てるために心がけている事を書いて見ます。
 先に言い訳をしておきます。決して、私は人を立てるのが上手くはありません。
 20代の頃に澤部滋先生(日本空手道修武会会長 空手界の重鎮)に言われた事があります。「変なプライドを持っている」と。その言葉の意味を20数年間考え続けました。もちろんずっとではありませんが、事あるごとに。自分では全く思い当たらないのですが、人には尊大な態度を取っていたのでしょう。今で言うタカビーですか。
 確かに言われる通り、私にはプライドを裏付けるものは何もありません。もし、そのように映っていたら、確かに裏付けのないプライドですから、「変なプライド」そのものでしょう。
 今でも人に自慢できる事は何もありません。ですから、この歳になって、通信教育でお習字を始めました。丁度一年経ちましたが、初級中級と合格しましたが、まだ師範講座の入り口です。とても人に自慢も出来ませんし、空手と一緒でやればやるほど難しくなるようです。

 空手も含めて何をやっても三流止まりです。できれば、命が尽きるまでに、二流ぐらいにはなりたいとは思っていますが。まぁ、学生時代は後ろから数えた方が早い席次でしたから、三流まで来たのかなと、納得はしています。

 さて、そんな私ですが、仕事上どうしても人を「立てる」必要に駆られる事もありました。私は親から褒められたことがないので、未だに褒められたり煽てられたりする事に、素直になる事ができません。裏があるとかそんな風には考えません。ただ生理現象として受け付けないのです。素直に褒められて喜べる人の方が出世していると思うのですが。これは親から躾けられた性格ですから仕方ないかも知れません。

 そのせいかどうかは分かりませんが、人を褒めたり、煽てる事ができないのです。それでも人を「立てる」場合には、人の話を最後まで聞く事に徹するように、自分に言い聞かせます。途中で口を挟みたくなるのですが、意外と最後まで聞くと、なるほどと、納得できる場合があるものです。そうすると、相手の言う事に共感を覚えたり、素直な気持ちで相手を高く評価する事もできるようになります。
 途中で反論するのは、下の下です。今頃分かっても後の祭りですが、どうか、私のような、「変なプライド」を持っている人がいるとしたら、実践してみてはどうでしょうか。
 そうすれば、私のように常に目の上のたん瘤扱いされる事もないと思います。

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