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論語を読んで見よう
【陽貨篇17-5】

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 『論語』を読んだことがある人は、サブタイトルを見て、「ちゃうちゃう」(大阪弁)と思われたと思います。
 通常は、学而篇第一の一「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。」と言う、「朋ありて遠方より来る」の聞き覚えのある文が書かれてある、この文から始まると思われたと思います。

 私は通読した分けでもないので、違和感がないのですが、著者は「はじめに」で、学而篇第一の一から並べる事にも根拠がない事を挙げ、現代人に読みやすく再編集されたのでしょう。

 参考文献に添った順序で読んでいく事にします。
著者は第一講 変革者 孔子と題して白文と読み下し文を掲載していますので、そのまま引用します。

白文「公山弗擾以費畔、召、子欲往、子路不説曰末之也已、何必公山氏之之也、子曰、夫召我者、而豈徒哉、如有用我者、吾其為東周乎。」
読み下し文「公山弗擾(こうさんふつじょう)、費(ひ)を以て叛(そむ)く。召(まね)く。子往(ゆ)かんと欲(ほっ)す。子路(しろ)よろこばずして曰(いわ)く。之(ゆ)くことなきのみ。子曰(のたまわ)く、それ我を召く者にして、豈(あ)に徒(いたずら)ならんや。もし我を用うる者あらば、我はそれ東周を為(な)さんか。」(陽貨篇17-5)

 私にとって、孔子は偉い人であり、老子や釈迦、ソクラテス、あるいはキリストなどと比較される聖人である、という程度の認識しかありません。しかしどの聖人に会った事もなく、話しを直接聞いたわけでもないので、実のところ偉いのかどうかも分かっていません。
 ですから、この陽貨篇17-5を読んでも、ピンとくるものはありません。
 
 私がこの文を読んで感じた事は、公山弗擾と言う人が反乱を起こし、その執政官として、孔子を招請したのですから、孔子の手腕は世の中に知れ渡っていたのかなと思う事です。単なる賢い人や思想家に、臨時であっても革命政府の首相を任せようとは思わないでしょう。

 この文章だけでは、実際に革命に参加したかどうかは分かりませんが、高弟である子路は、謀反人に加担する事を喜んではいません。その時孔子は、自分にその役割を託そうとするのだから無駄ではない、自分の能力が活用できるならば、東周のような国を造れると言っています。ちなみに東周と言うのは、周の国の時代の変遷による呼び名と思えます。

 著者は、同じ陽貨篇17-7に、やはり反乱軍からの要請に、孔子は「往かんと欲す」と言っている事を挙げ、一度だけではない孔子の気持ちを伝えています。

 この文を如何に読むかは、その人の経験や思想により変わると思いますが、私は、次のように考えます。

 自分の能力を使ってもらえるのならば、相手を選ぶことはない。しかし、そのやり方や結果については、任せてほしい。自分の理想とする結果を生み出す自信はある。という事ではないかと思います。

 私の若い頃は、いいように使われて内心いやになる事もありました。評価が自分の思う評価と解離する事が多かったのです。

 しかし、30歳を過ぎる頃には、考え方を変えていきました。「呼ばれている間が花」と思うようにしたのです。呼ばれなくなったら、用済み。貴方の能力は使えないと言われるのと同じです。
 もちろん、孔子の招請されるのと、比較しては余りにも失礼であり、度が過ぎますが、私個人の気持ちとしては同じです。

 評価も同じで、不公正な評価をされて悔しい思いをした事は、多くの人が経験すると思います。しかし、評価をされなくなったら、その場所に必要ではないと烙印を押されるのと同じだと私は思います。これも「評価をされている間が花」だと思います。

 能力を評価して使われる場合もあるし、他に人が居ないから使われる場合もあります。できれば、評価する側になれば良いのですが、私の経験では、これは、読み書きそろばんと言った能力ではない、人間の持つ、私には未だに理解できない能力によって決まるのだと思います。

 現に聖人と言われた人は、能力的には他の追随を許さない程の力があったと思います。それでも、孔子を招請する公山弗擾と言う立場の人がいるのです。
 この招請に答えようとする孔子は、「謹慎謙譲」やはりただ者ではなさそうです。

 日本でも主君よりもそれを支える家老や軍師の方が、能力的には上だったかも知れません。その卓越した能力の高い者を随わせる能力の事を、「徳」と言うのでしょうか。「定め」や「運命」、あるいは、「星の元に生まれる」とでも形容すれば良いのでしょうか。私の歳になっても分かりません。

 会津藩の「什の掟」ではありませんが、「ならぬことはならぬものです」と達観する事の方が、ストレスにはなりません。
 孔子が言う『我を用うる者あらば』と受け入れる事ができる素直さを見習うべきです。 大阪弁で言えば『呼ばれてなんぼ』です。  

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
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