詩経には、『風・雅・頌』の三つが収められています。風は15、雅は2つ、頌は3つに分けられています。それぞれ風が160首、雅は小雅74首と大雅31首、頌は周頌31首、魯頌4首、商頌5首、合わせて305首の詩歌が集められているという事です。編纂したのが孔子という説もありますが、定かではありません。
『現代人の論語』にも日本の万葉集のようなものであると書かれてあります。万葉集は4,500以上も集められたという事ですから、日本においても詩歌に価値を見出したか、あるいは文化として定着したことを感じます。(上の写真は百人一首の抜粋です)
私は昨年からお習字を始めましたが、仮名文字を習うお手本には、和歌の中でその時代の三筆と称された人の、臨書をする事があります。ここでも詩歌が文化の重要な一つとなっています。
|
|
今回の【泰伯篇8-8】では『現代人の論語』の題名は、[第六講 文化の出発点としての詩]になっています。
出発点と言うのがポイントになると思いますが、今で言えば、学ぶという事に対してのシステムであり、カリキュラムの必要性を説いたのかも知れません。
ここでも文化について説かれているのでしょう。
前回同様『論語』を見て見ましょう。 ●白文
『子曰、興於詩、立於礼、成於楽』。
●読み下し文
『子曰(のたま)く、詩に興(お)こり、礼に立ち、楽(がく)に成る』。(泰伯篇8-8)
ここでは、孔子が「徳」のある人になるための方法、すなわち、人格の優れた人を育てるための流れを説いていると思われます。
私も「ものには仕方がある」と、よく言いますが、何かを成さんとする時に必要な事は方法が大切だと思っています。折角目的は崇高な事でも、やり方を間違うと徒労に終わってしまう事もあります。
私は天邪鬼(あものじゃく)かも知れませんが、「全ての道はローマに通ず」と言う諺は、同意する事ができません。詭弁であると思っています。一つの道理によって、あらゆることが解決されるのであれば、そんな楽な事はありません。そう思った事もありますが。
ですから、孔子の『興於詩、立於礼、成於楽』であるという考えは、三段論法に過ぎず、非理論的であると思うのですが、やはりこれも学が無いためでしょうか。
しかし、2500年もの間、有識者によって、あるいは為政者や権力者によって学問として高く評価して来たのですから、私のような者が早計に判断して斬捨てる分けには行きません。
そこで、もう少し、掘り下げていきたいと思います。
孔子は、その最初に「詩歌」に接する事が大切であると言っています。ここでは、「興於詩」と言い、「詩」が「礼」を知るキッカケになる事を説いています。
なぜ、そう言う理論が成り立つのかを考えて見ましょう。推測ですが、『論語』のような教科書にすべきものが無かったと考えられます。そこで、学ぶべき対象を『詩歌』にしたのだと思います。もちろん、詩歌には孔子が理想とする人格のエキスがあると確信があったのでしょう。
詩歌には、人間のもつ、嘘偽りのない心の叫びが、反映されているものが多い事は、私のような学の無いものでもおおよその検討がつきます。
孔子は、『詩歌』に接し、知識や感情を豊かにする事で、形式的な『礼』に心を宿すことができ、その心や立ち振る舞いで『楽』を表現することができる人格者として成長する事ができると考えたのでしょう。
残念ながら孔子の思いは、人々に通ずることはありませんでした。その後の歴史がそれを裏付けていると思います。
ただ、『詩歌』には、現在でも学ぶべき事が沢山あります。それは言葉です。
最近のテレビ番組で浜田雅功氏が司会をしている「プレバト才能ランキング」の中の「俳句」部門の夏井いつき先生の解説にはいつも感心させられます。
こういう人の事を造詣が深いと言うのでしょうね。ここまで、5・7・5と言う僅か17文字の言葉によって、あるいはその語順を並び替えるだけで、表現できることが変わると言うのは、やはり文化なのでしょう。いつみても感心を通り越して、感動すら覚えます。もちろん夏井先生のキャラクターも相まって、興味深く俳句の世界を、垣間見させてもらっています。
確かに言葉には人を引き込む魅力もあり、また使い方によっては逆鱗に触れる事もあります。ですから、『礼』を知る前に、言葉の大切さ、奥深さを知る事の重要性を説いたものだと思います。
【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
憶測:学ぶべき書物がない時代の唯一の学ぶ対象が詩楽礼であったと思われる