文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【11】

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 今日の一文字は『宿』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 宿 調度品

 朝からいいお天気です。盆踊りの準備も大方出来上がったようで、後は提灯をつけるくらいでしょうか。
 
 今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第十段 〔原文〕

家居いえいつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。

よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、ひときはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきららかならねど、木だちものふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子すのこ透垣すいがいのたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

多くのたくみの心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽せんざいの草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。

さてもやは、ながらへ住むべき。又、時のまの烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。

後徳大寺大臣ごとくだいじのおとどの、寝殿にとびゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心みこころ、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮あやのこうじのみやのおはします小坂殿こさかどのの棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『住まいはその人に似合っていると、好ましく思う。この世の中は仮の宿と思っても、やはり趣がある。

 立派な人が穏やかに住んでいる所は、差し込む月の光まで、ひときわ印象深く思える。

 流行はやりの派手さはないが、庭の木も年輪を感じさせ、わざとらしくない庭の草も釣り合っている。簀子すのこ透垣すいがいの様子もセンスが良くて、何気ない調度品も古雅こがで落ち着いて、心憎いばかりである。

 多くの職人が腕に寄りをかけて磨きたて、唐や大和の珍しいこの上ない調度品を並べて、前栽の草木まで造作の限りを尽くし、見た目も良くなく、凄く興ざめする。』

 

『住』

 「衣食住」と言うのは、その順番はともかく、生きていくうえで大切な要素として、いつの時代でも重要視されてきています。

 このブログでは、宮本武蔵の独行道を載せていますが、その中で、【 身ひとつ尓美食をこのま須】と言うのがあります。

 その投稿では、『「起きて半畳寝て一畳たらふく食っても二合半」が記憶にありますが、これは、記憶の間違いで「起きて半畳寝て一畳」「天下取っても二合半」と言うらしいです。
 記憶というものは不確かなもので、徳川家康の言葉と思っていました。織田信長の言葉らしいですが、他にも、豊臣秀吉、夏目漱石、内田百閒などの説もありますので、誰が言ったのか不明としておきましょう。』と掲載しました。

 誰の言葉か結局は分からないのですが、私は、どんなに出世しても天下を取っても、実際に必要なものは、一畳の場所と三食を口に出来れば良いと言う事だと思っています。

 よく、「持ったまま死ねない」「あの世までは持っていけない」などと言いますね。

 これを贅沢を戒めたり、物欲を制御するための言葉として、故事としてあるのは理解できます。

 それでも、個人として人生の中で一番大きな目標を、家を建てる事に置いている人は、少なくありません。

 それだけ、住まいに対する思いは強いのだと思います。

 兼好は、身の丈にあった住まいであれば、好ましく見ることが出来ると考えていたのでしょう。

 言葉にも、『うだつが上がる』と、建物に関係する事を、出世するとか地位が上がる譬えにしている場合があります。
 
 その「うだつ」には色々な説があるようですが、京阪神では『防火壁』の事を言う場合が多いようです。私もそのように理解しています。

 その『防火壁』を建てられる家は裕福と言われています。

 ただ、身の丈に合うかどうかと言われると少し考えてしまいます。兼好はどのように、その人となりを判断したのでしょう。

 具体的には書かれていませんが、豊臣秀吉で有名な黄金の茶室などは、身の丈に合っているのでしょうか。私には悪趣味としてしか見えません。これは、センスの問題で、素晴らしいと評価する人達もいます。

 財力があるからとか、地位があるからとか、名声を得たからと言って、それに合わせる事が、身の丈にあったと言えるのでしょうか。

 確かに財力があれば、住まいにお金を掛ける事も出来るでしょう。

 吉田兼好の時代は分かりませんが、京都の哲学の道から南禅寺の方に、裏道を歩くと、それは立派な屋敷が並んでいます。

 そんな屋敷の中で、随分前の事ですが、金地院こんちいんが無料拝観でき、小堀遠州作の庭を見ることができました。兼好から言わせると、興ざめするのでしょうか。

 京都や奈良だけでなく、日本には随分立派な寺院や神殿あるいは、一世を風靡した人達の家屋が多く残っています。中には文化財に認定されて保護されているものもあります。

 現在でも、田園調布や芦屋だけではなく、東京や大阪にも点在する金持ちの町があります。

 不動産業を営んでいた関係で、随分立派な建物を拝見しましたし、建てさせてもらった事もあります。

 私の個人的な考えですが、駕籠かごに乗る人担ぐ人、そのまた草鞋わらじを作る人』 と言う言葉がありますが、格差社会と捉える事も出来ますが、社会を構成する場合には、自然なのかも知れません。

 ですから、立派な屋敷でも、その屋敷のあるじもいますし、その屋敷で働く人もいます。そしてその屋敷を造る人もいますし、その造る人の手伝いをして生活の糧にする人もいます。

 テレビ番組に『ダウントンアビー』と言うのがありますが、まさに人間の生活の在り方の縮図として、それぞれの人の人生を見ることができます。

 絵画でも『落ち葉拾い』(ジャン=フランソワ・ミレー作)、などはよく人々の生活を現わしているいると思います。もちろんこれは、キリスト教の教えと合致するのですが、世の中をよく見ると、食物連鎖のような関係で、人は成り立っているのかも知れません。

 人間の世の中では、本人が思うと思わざるに関わらず、立派な屋敷に住む人も、住めない人もいます。

 仮の宿と考えるのも、気休めかも知れませんが、どれだけ立派な家に住もうが、飽食の限りを尽くそうが、「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」だと思えば、納得できるのではないでしょうか。

 私は、達観すれば良いとも思わず、気休めとも思わず、母が常々言っていた「上向いてもキリが無い、下向いてもキリが無い」と思えば、良いと思います。やはり、ここでも『足るを知る』事だと思います。

 7月27日のブログ、[『徒然草』を読んで見る。【6】]の投稿の中に、『人生七味唐辛子』と言う事を占い師から言われた『ラストチャンス 再生請負人』を紹介しました。

 「うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ・嫌味いやみひがみ・やっかみ」と言う七つの味ですが、こんな気持ちを持って人生を送りたくはありません。

 仮の宿だからと言って、投げやりになる必要も、不平不満で満たされる必要もありません。できれば、幸せに人生を送りたいものです。

  昔から、住めば都と言うではありませんか。 

 

『調度品』

 調度品と言うのは、日常使う道具や家具の事ですが、時代や経済力によって様々な形態があります。

 兼好が言っているのは、その住まいにあったセンスの良い物を、それとなく置いてある。と言う事だと思います。

 それとなく、が大切で、これ見よがしに、高価な物を揃えても、品よくありません。

 私は戦後ほどなく生まれましたから、丁度何もない時代でした。時代が突然文明に目覚めたのか、テレビも洗濯機も、掃除機など電化製品も、自分の成長と共に家庭に入ってきました。

 これは正にアメリカの影響だと思っています。テレビから流れるアメリカの生活を目指して、日本人はガムシャラに経済発展を遂げたのでしょう。

 今でも、同じ電化製品と言えども、高価な物と安い物が混在しています。中には見た目だけは高価に見える物と、如何にも安物と思われる物もありますが、それほど機能が変わらない物も出回っています。

 結婚して5年経つか経たない内に、コンピュータが個人でも使える時代に入り、急速にインターネットの時代になりました。

 私の人生と一緒で目まぐるしい変化の時代に遭遇しました。これは、時代時代で、それぞれの時代の人、みんなが思った事かも知れません。

 調度品の場合は、昔も今も、見る目とセンスが問題になって来ると思います。

 もし、経済的に余裕があれば、家に置く調度品や、身に付ける物は、機能的でセンスの良い物を選びたいものです。

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