文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【31】

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 今日の一文字は『逝』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三十段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 時は流れる

 なんだか、『死』に関わる事柄が続いています。まぁ、生と死の間にある人生ですから、当然と言えば当然で、避けて通る事の出来ない問題です。

 台風19号に続いて20号も後を追うように日本に接近しています。20号は大阪を直撃する進路です。災害でまだ大変な生活を強いられている人も多い中、少しは台風も遠慮してくれても良いのですが、そう言う分けにも行かない模様です。

 台風は突然くるわけでは無いので、準備を怠らずに注意しましょう。今は家屋がしっかりしているし、私のようなマンション住まいの人が多いですから、住まいに対しての台風対策はしないようです。昔は、扉に板を張り付けたり、庭の木をロープでつなげたり、懐かしい思い出です。

 昔住んでいた家は、台風の度に私の家だけ、床下まで浸水していました。庭の池の鯉などがプカプカ浮かんでいました。これは下水の排水処理が悪かったのでしょう。

 今は、そんな心配をしなくても良くなりましたが、マンションが河の傍に建っているので、大津波などでは浸水するかも知れません。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第三十段 〔原文〕

 人の亡き跡ばかり悲しきはなし。

 中陰ちゅういんの程、山里などに移ろひて、便りあしく狹き所にあまたあひ居て、後のわざども營みあへる、心あわたゞし。日數ひかずの早く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日は、いと情なう、互にいふ事もなく、我かしこげに物ひきしたため、ちりち゛りに行きあかれぬ。もとの住家にかへりてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。「しかじかの事は、あなかしこ、跡のため忌むなる事ぞ」などいへるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覺ゆれ。

 年月經ても、露忘るゝにはあらねど、去るものは日々に疎しといへる事なれば、さはいへど、そのきはばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。からは、けうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。

 思ひ出でて忍ぶ人あらむほどこそあらめ、そも又ほどなくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、哀れとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人は哀れと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も、千年を待たで薪にくだかれ、ふるきつかはすかれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『 人が死んだ後ほど悲しいものはない
 中陰ちゅういん(四十九日)の間は山里などに移り、縁者が狭い場所に大勢が集って仏事を執り行うと心が慌ただしい。日が過ぎ行く速さは他に比べようがない。四十九日には互いに話す事もなく、皆散り散りに去っていく。
  家に帰っても、悲しみはより深くなる。そんなときに「これはこう、あれはああと、慎まなければ、あるいは縁起が悪いから避けねば」と言っているのを聞くと、こんな時に少しは口を慎めば良いのにと、嫌になる。

 年月が流れても忘れる事はないが「去る者日々に疎し」と言うように、亡くなったときほどは悲しみを感じなくなり、故人のよもやま話をしては笑い合うものだ。

 亡骸なきがらは山に埋葬し命日などにお参りすると、しばらくすると卒塔婆そとうばには苔が生え、落ち葉が積もり、木の葉が降り積もり、夕靄ゆうもや、夜の月だけが言葉をかける。
 

 思い出して、偲んでくれる人がいるうちは良いが、それもまた無くなり、故人を知らないでいる子孫は聞き伝えられるだけで哀れにも思えない。

 そして、法事もなくなり、名前も知られず、春の草のみが、情緒を感じる人だけが哀れと思うだけである。

 ついには、嵐に堪えかねた松も、千年を待たずに薪にされ、古い墓は鋤かれて田となる。墓の形さえなくなってしまうのは悲しい。』

 

『逝』

 「せい」と言うのは、「死」を遠回しに言って、露骨にならないように配慮した言葉と思います。

 誰にでも平等に訪れる死に対して、直接的には受け入れがたい、人間の気持ちが表されている言葉だと思います。

 人それぞれに『死生観』は違うと思います。そして、哲学者にとっては、格好のテーマだと思います。格好と言うと語弊がありますが、科学では解き明かす事が困難な事象です。

 「生」も「死」も、それがどんな状態かは、科学的に解き明かす事は可能ですが、疑問については、何も科学では教えてくれません。

 その疑問について哲学者は、頭を捻るのです。生まれて来た理由、なぜ死ぬ、この原因は科学的に解ると思います。しかし、死んだあとの事や、生まれる縁について考えれば考えるほど分からなくなります。そして辿り着くのが、神であったり仏と言う事で一応の終着点を見つけようとします。

 では、私はどう考えているかと言いますと、「生死」については私ごときが考えても解らない。と諦観しています。それよりも、如何に生きて、如何に死ぬか、を考える方が、性にあっていると思います。

 ですから、自分の関係する人が、くと寂しい気持ちになりますし、新しい命に対しては、祝福する気持ちになります。しかし、それ以上の事は考えません。その理由は、私にとっては明らかです。解らないからに他なりません。

 考えても解らない事を考えると、僅かな知識や体験、経験を通して判断しようとします。これは、明らかに「馬鹿の考え休むに似たり」です。もちろん、賢い人は考えてください。

 それよりも、私は、「覚悟」と言う事を大事に考えています。生きていくのも「覚悟」、死ぬのも「覚悟」です。

 この私がする「覚悟」は、迷いを断ち切って、一心になる事です。生きている時にする覚悟には、人事を尽くす必要があります。

 「人事を尽くして天命を待つ」、人事も尽くさないで天命を待つのは、投げやりで生きる力を感じません。人事は出来る限り尽くせば良いのですが、これも僅かな知識量と、僅かな体験を通じて経験とした事に頼るほかはありません。

 ですから、やるだけやったら後は、運命に従えば良いのです。その覚悟もしないで、とやかく考えるのは、生き方として堂々とした人生ではないと思っています。

  逝く事を考えている暇があったら、如何に目の前にある事に一生懸命になれる覚悟が出来るか。それが人生だと思っています。

 

『時は流れる』

 時間と言うものは、止めようがありません。「時間よ止まれ!」と今まで何度言った事でしょう。

 多分、仙人になると、神通力で時間も止められるかも知れません。なんせ、空を飛べたりするみたいですから。

 しかし、この歳になっても神通力は出来ません。

 何度も登場しますが、方丈記の冒頭『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。』が真実であると思う事にします。

 デジャヴのように感じた事は、何度かあります。時を越えたのかも知れませんし、単に勘違いなのか、それも分かりません。

 であれば、時は流れてしまうのだから、今をしっかり地面に根を張って生きるか、それとも時は流れて今の状況は続かないと、我慢しながら生きるのか、人に平等に与えられた、選択肢です。

 私は、自分の分に応じた、今を精一杯生きる事を選択し、そして、人事を尽くしても尽くし切れない場合には、時の流れに身をまかせたいと思っています。

 世の中には、時が解決してくれる以外に方法がない場合もあります。もちろん、自分の未熟さも関係すると思いますが、環境が自分で解決する道を選ばさない場合もあります。ですから時期尚早を一早く読み取る事が大切だと思います。

 これまでにも、この時期尚早と言う事が解らなく、失敗した経験は山ほどありました。

 私の親友で既に亡くなりましたが、「風が吹かないとあかん」と言っていた事を思い出します。彼は、中小企業の社長をしていました。上場を目の前にして他界してしまいました。

 テレビの番組で「風を読む」と言うのがありますが、この風を感じる力があるか無いかで、タイミングが合うのでしょう。

 空手であればタイミングは理解できるのですが、経済活動には不向きなのでしょう。いや、不向きと言う前に、能力が無いと言った方が、正確だと思います。

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