文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【129】

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 今日の文字は『慈悲じひ』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十八段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 慈悲

 
『電車内・飲食店でキレる老人の暴走脳みそ』
(PRESIDENT Online 片田 珠美 2018/11/27 09:15)

「11月11日、71歳の無職男性が女性を刺し、翌日強盗殺人未遂容疑で逮捕された。精神科医の片田珠美氏は「容疑者は脳梗塞の影響で、感情や衝動を抑制できなくなる『脱抑制』だった可能性がある。脱抑制は、認知症や脳の老化でも起きる。電車内や飲食店でキレる老人や、ライブをドタキャンした歌手の沢田研二さんもこの疑いがある」と指摘する――。
—–中略—–
「脱抑制」の可能性
まず考えられるのは、近江容疑者が数年前に脳梗塞を患った影響で、感情や衝動を抑制できなくなる「脱抑制」に陥っていた可能性である。脳梗塞になると、脳の血管が詰まってその先の組織に酸素や栄養が届かず、脳神経細胞が死んでしまう。そのせいで感情や衝動を抑制できなくなるのだ。
—–中略—–
前頭側頭型認知症で万引きや盗み食いなどの反社会的行動
「脱抑制」は認知症でも起こるケースがある
脳梗塞で脳の血管が詰まり、脳神経細胞が死ぬと、認知症になることもある。このタイプの認知症は血管性認知症と呼ばれる。血管性認知症は、脳梗塞だけでなく、脳の血管が破れる脳出血によっても引き起こされる。
—–中略—–
認知症になると怒りっぽくなる
前頭側頭型認知症に限らず、認知症になると怒りっぽくなることが少なくない。これは、主に2つの理由によると考えられる。まず、記憶障害のせいで大切な物をなくしたり、道に迷ったりすることが増え、不安になる。そのうえ、病識がないので、そういう自分をなかなか受け入れられず、イライラして怒りっぽくなる。
—–中略—–
ライブをドタキャンした歌手の沢田研二さんも「脱抑制」か
病気でなくても「脱抑制」は起こりうる
これまで取り上げたのは、れっきとした病気だが、必ずしも病気でなくても「脱抑制」は起こりうる。加齢によって脳の機能が低下するにつれて、感情や衝動を抑制するのが難しくなるからだ。もっとも、頭部MRI検査を受けても、ほとんどの場合異常は認められない。
—–中略—–
老い先短いのだから我慢なんかしたくない
こうした変化を引き起こすのは、「脱抑制」だけでない。定年退職による喪失感や孤独感も大きな影響を与えると考えられる。そして、何よりも無視できないのが、「老い先短いのだから我慢なんかしたくない」という気持ちである。

沢田さんは、記者会見で「僕の音楽人生にとってはもう後がない」と話した。この「もう後がない」という思いこそ、「我慢なんかしたくない」という気持ちに拍車をかける。しかも、年を取るにつれて強くなる。

脳梗塞や脳出血、あるいは認知症はひとごとと思っている読者の方も、加齢による「脱抑制」からは逃げられない。また、高齢になるほど「老い先短いのだから我慢なんかしたくない」という気持ちも強くなる。それを肝に銘じ、「暴走老人」にならぬよう今から気をつけるべきである。」

 この徒然草を読んでいて、釈然としない気持ちになり、少しイライラする事があります。しかし、これはあくまでも、自分の知識や教養の無さからくるものだと、理解しています。

 その他の日ごろを考えると、若い頃よりむしろ、気が長くなったように思います。若い頃は、どちらかと言うと、手の方が早かったと思います。

 しかし、高齢者の問題は、これからも、この記事を書いている人も、いずれ訪れるのですから、この記事は心に留めておくべきかも知れません。

 別に怒っている分けではないのですが、言論の自由、表現の自由と言っても、この私と同年代の歌手の名前をだして、「脱抑制」と言っても良いのでしょうか、確かに「脱抑制」は病気とは言っていません。しかし、犯罪者と同列に扱うような書き方に感じるのですが、やはり私の文章の読み方に問題があるのでしょうか。

 お医者さんは、患者を診察して「脱抑制」と診断するならともかく、なんだか釈然としません。もちろん、診断して言うなら、守秘義務の観点からも言ってはいけないのでしょうが。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二十八段 〔原文〕

 雅房大納言は、才賢く、善き人にて、大將にもなさばやと思しける頃、院の近習なる人、「只今、淺ましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色も違ひ、昇進もしたまはざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、にくませ給ひける君の御心は、いと尊きことなり。

 大かた生けるものを殺し、痛め、闘はしめて遊び樂しまん人は、畜生殘害の類なり。萬の鳥獸、小さき蟲までも、心をとめてありさまを見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、妬み、怒り、慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事、偏に愚癡ぐちなる故に、人よりも勝りて甚だし。彼に苦しみをあたへ、命を奪はん事、いかでか痛ましからざらん。

 すべて一切の有情を見て慈悲の心なからむは、人倫にあらず。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『 雅房大納言は、才能があり賢く、人物も良く大将にでもなれると思っていた時、上皇の側近が、「只今、浅ましい事を見ました」と上申した。「何事だ」と問いただすと、雅房卿、鷹に餌をやろうと、生きている犬の足を切り取ったのを、中垣の穴より見ました」と答えた。上皇は気味悪く、見苦しく思い、日ごろの好感度も無くなり、昇進する事もしなくなった。

 あれほどの人が鷹を飼うと言うのも想像外だが、犬の足の件は証拠もない。虚言の進言は気の毒ではあるが、このような事を聞かれて、咎める上皇の心は大変尊い。

 大抵生き物を殺し、痛め、戦わせて遊んで楽しむ人は、けだものが互いにかみ合い、傷つけ合うことに等しい。殆どの鳥や獣、小さな虫でも、よく観察すると、子を思い親を慕い、夫婦は連れ添い、妬み怒り欲多く、自己愛が強く、命を惜しむ事、愚かで物の道理がわからないので、人間以上である。そんなものに苦しみを与え、命を奪う事、どんなに不憫ふびんな事か。

 感情を持っているすべての生き物を見て、慈悲の心を持たないのは、人として守り行うべき道とは言えない。』

 

 

慈悲

 『すべて一切の有情を見て慈悲の心なからむは、人倫にあらず。』と言う事を言いたいのだと思いますが、引き合いに出されている話が、実在の人物と思われますので、何とも合点の行かない釈然としない思いに駆られます。

 まず、この話を兼好法師は誰から聞いたのでしょう。聞いた時に変だとは思わなかったのでしょうか。

 まず、隣の垣根越しに見たとされる、犬の足を切ったと言うのは、根拠がない話です。ですから、嘘をついて雅房大納言を貶めた人がいたのです。

 この話をに受けて、日ごろから立派な人間として評価していた人を、こんな諫言かんげんで、信用しなくなってしまったのでしょうか。であれば、この上皇を非難すべきではないかと、思うのですが、この文では、この上皇の気持ちがとても尊い、と書かれています。

 側近の者とは言え、いとも簡単に偽の情報を信じるとしたら、今までの雅房大納言に対する評価は何だったのでしょう。

 ただ、このような諫言を鵜呑みにするのも、世の中の常かも知れません。不思議な事に、良い事はなかなか信じられないのですが、悪い事は意外と信じてしまう事が、現在でも起こります。

 情報操作と言うのでしょうか、これを利用して、上手く世渡りをしている人も、私の人生の中では沢山見てきました。

 かくいう私も、そんな換言に踊らされて、職を失った経験がありました。今思い出しても、苦々しく思うのですが、世の中にはそんな嘘の情報をまことしやかに流す人がいる事も、知っておいた方が良いかと思います。

 ただ、私としては、上に立つ人は、側近が嘘を付いている事ぐらいは、見抜けないと、人の上に立つ資格がないとは思っています。

 そして、次の文は、仏教的な考えを基に読まなければ、俄かには理解し辛い表現です。

 『子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、妬み、怒り、慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事、偏に愚癡ぐちなる故に』この文章を見て、すんなりと理解できる人は、仏教的な考え方を理解されているのでしょう。

 一般的には、『子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、』『妬み、怒り』、『慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事』は、それぞれ違う心情と考えるのではないでしょうか。

 『子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、』は、愛情の現れとして捉えられます。
 『妬み、怒り』は、憎悪の感情です。そして、『慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事』は、欲として考えられる気持ちの現れです。

 しかし、仏教では、煩悩具足が人間です。数多くある煩悩を表す言葉として、貪瞋痴とんじんちと言う言葉がありますが、これを欲の塊、すなわち煩悩と呼んでいます。

 『子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、』は、自分の好むものをむさぼり求める貪欲とんよくにあたります。

 そして、『慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事』も同様です。『妬み、怒り』は、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚しんにと言えるでしょう。

 ですから、ここでは、全て煩悩である事を言っていると思います。鳥も獣も虫も、これらの道理も知らないのだから、人間以下だと言う事を、鳥も獣も虫も、煩悩は人間に勝ると言う言い方をしています。

 果たして、鳥や獣、あるいは虫は、人間より劣っていると言えるのでしょうか、自然の摂理のまま、本能のまま生きる事が、人間の目から見ると、道理も知らない事になりますが、それは人間の道理であり、大きな自然から見て本当に道理と言えるのでしょうか。

 確かに言葉を話し、考える事の出来る人間は、他の生物より優れた存在かも知れません。ならば、優れている事を表現しなければ、それこそ犬畜生にも劣ると思います。

 人間が偉いのではなく、優れているとすれば、優れているような行動を伴ってこそ、人は偉くなれるのではないかと思います。

 このような表現が文学なのかも知れませんが、私には何だかこねくり回して、簡単な事をより難しく表現しているように思えてなりません。 

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