文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【189】

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 今日の文字は『成就じょうじゅ』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百八十八段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 成就

 

☆自家製エビピラフ 二人前

 何もない時、残り物のご飯を使って、簡単にピラフが出来ます。別にエビでなくても、ピラフに合うものであれば何でもOKです。ただし、本当のピラフはご飯ではなく、米から作るそうです。ですからこれはピラフ風ですね。

  1. 用意する物
    (1)ご飯 【お茶碗2杯】
    (2)玉ねぎ【1/2個】細い半月切りにしておく。
    (3)ブラックタイガー【2本】冷凍でOK。2cm程度に切っておく。
    (4)片栗粉【大さじ1杯】】
    (5)ガラスープ【小さじ1杯】
    (6)料理酒【大さじ1杯
    (7)オリーブオイル【大さじ1杯】
    (8)バター【1片】飴のように包んである分量程度。
    (8)水【200cc】
    (9)塩胡椒【適量】
  2. 作り方
    (1)フライパンにオリーブオイルを引き熱する。
    (2)バターを入れて溶けたら、弱火にして玉ねぎを入れて飴色になるまで炒める。
    (3)ブラックタイガーを入れて、サッと炒めてご飯を入れる。
    ◎ご飯は残り物で十分、冷えている場合は少し電子レンジで温めて置く方が良い。
    (4)1.の(4)(5)(6)(8)を別の容器に順番に入れて、よくかき混ぜる。
    (5)(4)をフライパンに入れて、2分程度蒸す。
    (6)蓋を取って、水分がある程度なくなるまで炒めて終了。

    ◎豪華にしたい場合は、好みで具材を追加してください。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

徒然草 第百八十八段 〔原文〕

 ある者、子を法師になして、「學問して因果の理をも知り、説經などして世渡るたづきともせよ」といひければ、教のまゝに、説經師にならん爲に、まづ馬に乘り習ひけり。輿・車もたぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、佛事の後、酒など勸むることあらんに、法師のむげに能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌さうかといふ事をならひけり。二つのわざ、やうやうさかひに入りければ、いよいよ よくしたく覺えて嗜みける程に、説經習ふべきひまなくて、年よりにけり。

 この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこの事あり。若きほどは、諸事につけて、身をたて、大きなる道をも成し、能をもつき、學問をもせんと、行末久しくあらます事ども、心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつゝ、まづさしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事毎になすことなくして、身は老いぬ。つひに、ものの上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれどもとり返さるゝ齡ならねば、走りて坂をくだる輪の如くに衰へゆく。

 されば一生のうち、むねとあらまほしからむことの中に、いづれか勝ると、よく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひすてて、一事を勵むべし。一日の中、一時の中にも、數多あまたのことの來らむなかに、少しも益のまさらむことを營みて、その外をばうち捨てて、大事をいそぐべきなり。いづかたをも捨てじと心にとりもちては、一事も成るべからず。

 たとへば碁を打つ人、一手もいたづらにせず、人に先だちて、小を捨て大につくが如し。それにとりて、三つの石をすてて、十の石につくことは易し。十を捨てて、十一につくことは、かたし。一つなりとも勝らむかたへこそつくべきを、十までなりぬれば、惜しく覺えて、多くまさらぬ石には換へにくし。これをも捨てず、かれをも取らむと思ふこゝろに、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。

 京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行きつきたりとも、西山に行きてその益まさるべきを思ひえたらば、かどよりかへりて西山へゆくべきなり。こゝまで來つきぬれば、この事をばまづ言ひてん。日をささぬことなれば、西山の事は、帰りてまたこそ思ひたためと思ふ故に、一時の懈怠けだい、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

 一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るゝをも痛むべからず。人のあざけりをも恥づべからず。萬事にかへずしては、一の大事成るべからず。人のあまたありける中にて、あるもの、「ますほのすすき、まそほの薄などいふことあり。渡邊の聖、この事を傳へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある、貸したまへ。かの薄のこと習ひに、渡邊の聖のがり尋ねまからん」といひけるを、「あまりに物さわがし。雨やみてこそ」と人のいひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は、雨の晴間を待つものかは、我も死に、聖もうせなば、尋ね聞きてむや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し傳へたるこそ、ゆゝしくありがたう覺ゆれ。「きときは則ち功あり」とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。

 
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『現代文』

『ある者が子を法師にして「学問をして因果の理論を知って、説教などをして生活の手段にせよ」と言ったので、教えの通り説教師になるため、まず馬に乗る事を習った。輿や車を持たない身で、導師として招かれた時に、馬を迎えによこされた時、乗り方が下手で落馬してはいけないと心配になった。次に仏事の後で酒の席にいる事がある時、法師がまったく芸が無いのも、施主がおもしろくないと思うだろうと、早歌というものを習った。二つの技がようやく熟練の境地に達し、もっと上手くなろうと思い稽古するうちに、説教を習う暇がなく年取ってしまった。

 この法師の事だけではなく、世間の人は、おしなべてこのような事がある。若い時は、諸事において、身を立て、大きな野望を持ち、技能も身につけ、学問もしようと、遠い将来の事を心にかけながら、人生はゆったりしていると思い、怠けつつ、まず目の前の事に追われて月日を送れば、思った事は何も成せず年老いてしまう。ついに、ものの上手にもならず、思うような出世も出来ず、悔いてもすでに取り返しがつかない年齢になり、走って坂を下る輪のように衰えていく。

 ならば一生のおいて、一番重要と思う中で、どれが勝っているかよく思い比べて、一番を選び、その他の事には興味を持たず、一つの事に邁進するべきである。一日の中、一時の中にも数多く対処する事が起こる中で、少しでも有益な事は為し、その他に興味を持たず、大切な事を優先すべきである。どれもこれも為そうと考えていると、一つの事も達成できないだろう。

 たとえば碁を打つ人が、一手も無駄にせず、人より先に、些細な事を捨て大局を見通すようなものである。その場合、三つの石を捨てて十の石を取ることは簡単である。十を捨てて、十一を取る事は難しい。一つでも勝っている方を取るべきところを、十まで成ると惜しく思い、それより多く勝っている石には換えにくい。これも捨てないで、あれも取ろうと思っていると、どちらも失ってしまうのが道理である。

 京に住む人が、急ぎ東山に用事があり、既に着いていたが、西山に行っ他方が得策だと思って、門から翻って西山に行くべきである。ここまで来たのだから、この事をまず言おう。日にちを決めてはいないので、西山の事は、帰ってからまた考えようと思うから、一時の懈怠けだいが一生の懈怠けだいとなる。これを恐れるべきである。

 一つの事を成功させようと思えば、他の事が出来なくても苦しむべきではない。人の中傷を恥じる必要はない。万事と引き換えにしなくては、一番大切な事は成就できない。人が沢山いる中である者が「ますほのすすき、まそほのすすきなどと言う事がある。渡辺の聖が、この事を伝えている事を知っています」と語れば、登蓮法師がその場にいたが、この事を聞いて、雨が降るのに「蓑・笠はありますか、貸してください。このすすきのことを習いに、渡辺の聖の所に尋ねに行ってきます」と言ったが「あまりに性急、雨が止んでからにすれば」と人が言うと「いい加減な事を言われる。人の命は、雨の晴間を待ってはくれない、自身も死に、聖も亡くなってから、尋ね聞く事ができるか」と走り出て、習ってきたと伝えられているのは、実に希少であると思われる。「きときは則ち功あり」と論語の一節にもある。この薄を知りたいと思うように、悟りを開く事のいわれを知りたいと思う必要がある。』

 

『成就』

 ここでは、例に挙げている、碁の事も詳しくありませんので、反って混乱しますが、要するに、大事に思う事は、何をさしおいても、直ぐに実行しなければ、人生、そんなに長くないと言っているのだと思います。

 「ますほのすすき、まそほの薄などいふことあり。渡邊の聖、この事を傳へ知りたり」と言うのは、吉田兼好が鴨長明の書いた『無名抄』からの引用です。原本の翻刻がhttp://yatanavi.org/text/mumyosho/u_mumyosho016
にありましたので、載せておきます。出典は「やたがらすナビ」です。

マスホノススキ
雨のふりけるひある人のもとにおもふとちさし
あつまりてふるきことなんかたりいてたりけるつゐて
にますほのすすきといふはいかなるすすきそなと
いひしろふほとにある老人のいはくわたのへといふ
ところにこそこのことしりたるひしりはありと
きき侍しかとほのほのいひいてたりけり登蓮法師
そのなかにありてこの事をききてことはすくなに
なりて又とふこともなくあるしにみのかさしは
しかし給へといひけれはあやしとおもひなからとり
いてたりけり物かたりをもききさしてみのうち
きわらくつさしはきていそきいてけるを人々
あやしかりてそのゆへをとふわたの辺へまかる
なりとしころいふかしくおもひ給へし事をしれ
る人ありとききていかてかたつねにまからさらむ
といふをとろきなからさるにてもあめやめていて給へ
といさめけれといて はかなき事をもの給かな命は
われも人もあめのはれまなとまつへき事かは何事も
いましつかにとはかりいひすてていにけり
いみしかり
けるすき物なりかしさてほいのことくたつねあひて
とひききていみしうひさうしけりこの事第三
代の弟子にてつたへならひて侍りこのすすきをな
しさまにてあまた侍りますほのすすき
まそをのすすきまそうのすすきとてみくさ侍
なりますほのすすきといふはほのなかくて一尺
はかりあるをいふかのますかかみをは万葉集には十寸
のかかみとかけるにて心うへしまそをのすすきと
いふは真麻の心なりこれは俊頼朝臣の哥にそよみ
て侍るまそう(を歟)のいとをくりかけてと侍かとよいとなと
のみたれたるやうなるなりまそうのすすきとは
まことにすわう也といふ心也ますわうのすすきと
いふへきをことはを略したるなり色ふかきすすき
の名なるへしこれ古集なとにたしかにみえたる
ことなれと和哥のならひかやうのふることをもち
ゐるも又よのつねのこと也あまねくしらすみた
りにとくへからす

 

 この話を兼好法師が用いたのですが、登蓮法師がこの「ますほのすすき、まそほの薄」がどんな意味なのか知りたくて、直ぐに行動を起こしたという内容です。

 ここで太文字で赤の二重下線を引いたところは、現代文にした『人の命は、雨の晴間を待ってはくれない、自身も死に、聖も亡くなってから、尋ね聞く事ができるか」』にあたります。

 この段でも徒然草特有の文章の流れが、読解をさまたげていますが、初めは「二兎を追う者は一兎をも得ず」のように一つの事に集中しなければ物事を成就することは叶わないと言っていると思います。

 そして、その事とは別に、「光陰矢の如し」、有限の命を考えると、直ぐに始めないと命は止まってはくれない。と言っているのだと思います。

 きっと、兼好法師は言いたい事が整理できないまま、徒然なるままに文章にしたためたのでしょう。

 兼好法師のいつもの癖なのでしょうか、最後に『一大事の因縁をぞ思ふべかりける。』と仏教的な要素も付け加えています。

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