文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【220】

スポンサーリンク

 今日の文字は『しょう』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百十九段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 

☆『北朝鮮外相、米主張を否定 「制裁の全面解除求めず」』
(共同通信社 2019/03/01 09:29)

 「【ハノイ共同】北朝鮮の李容浩外相は1日未明、ベトナム・ハノイのホテルで記者会見を開いた。事実上決裂した前日の米朝首脳再会談について、北朝鮮側は寧辺の核施設廃棄と引き換えに国連制裁の一部を解除するよう現実的提案をしたと主張。制裁の全面解除を要求したとのトランプ米大統領の説明を否定した。一方、朝鮮中央通信は1日、両首脳が非核化のため対話を続けていくことにしたと報じた。

 異例の記者会見は、合意見送りの責任は金正恩朝鮮労働党委員長ではなく米側にあると訴える狙いがありそうだ。ただ、国営メディアはこうした米朝の対立を伝えず、交渉継続への余地を残した形だ。」

 折角トランプ大統領は、金正恩朝鮮労働党委員長に配慮をして記者会見していたと思われますが、この記者会見で、米国の配慮を台無しにしてしまったように思います。

 しかし、これが北朝鮮の発信の仕方なのでしょう。さて、この記者会見を受けて、米国はどのように動くのでしょう。なんだか、興味が湧いてきました。

 そして、日本は・・・・。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百十九段 〔原文〕

 四條黄門命ぜられて曰く、「龍秋は道にとりてはやんごとなき者なり。先日來りて曰く、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。そのゆゑは、かんの穴は平調、五の穴は下無調なり。その間に勝絶調をへだてたり。じゃうの穴雙調、次に鳧鐘調をおきて、さくの穴、黄鐘調なり。その次に鸞鏡調をおきて、中の穴盤渉調、中と六との間に神仙調あり。

 かやうに間々にみな一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子をもたずして、しかも間をくばる事ひとしきゆゑに、その聲不快なり。さればこの穴を吹くときは、かならずのく。のけあへぬときは、物にあはず。吹き得る人難し』と申しき。料簡のいたり、まことに興あり。先達後生を恐るといふ事、この事なり」と侍りき。

 他日に景茂が申し侍りしは、「笙は調べおほせてもちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに、口傳の上に性骨を加へて心を入るゝ事、五の穴のみにかぎらず。偏にのくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も快からず。上手はいづれをも吹きあはす。呂律のものにかなはざるは、人の咎なり。うつわものの失にあらず」と申しき。

 
スポンサーリンク

『現代文』

『四条黄門が「龍秋は笙の道では達人である。先日私の所に来て『浅はかな限りで、極めて軽率な事ですが、横笛の五の穴は、いささか気にかかる所があり、ひそかに考えています。その理由は、かんの穴は平調、五の穴は下無調です。その間に勝絶調しょうぜつちょうがあります。上の穴は双調、次に鳧鐘調ふしょうじょうを置いて、さくの穴は、黄鐘調おうしきじょうなり。その次に鸞鏡調らんけいじょうをおきて、中の穴は、盤渉調ばんしきじょう、中と六との間に神仙調しんせんじょうがあります。

 このように間々にみんな一律を隔てていますが、五の穴のみ、上の間に調子がなく、しかもその間隔は等しいので、その音は不快です。だから、私はこの穴を吹くときは、必ず口を離します。十分離さない時は、他の楽器と合いません。うまく吹ける人が少ない。』と言った。思慮深い事である。まことに興味深い。先達の者が後輩を恐れると言う事は、まさにこの事である」と申された。

 他の日に景茂が、「笙は調律が終われば、たゞ吹くだけです。笛は、吹きながら、呼吸の中で、旋律を整えていくものですから、穴ごとに、口伝の上に天性の素質を加へて心を込めるのは、五の穴だけではありません。ここだけ口を離すと決めつけてはなりません。下手に吹けば、どの穴も不快です。上手に吹く者はいづれをも吹き合わします。旋律が合わないのは、人の問題であり、楽器の欠点ではありません。」と申した。』

 

 

『笙』

 どうも登場人物の関係が分かりにくい文章です。

 四条黄門とありましたが、黄門は中納言ちゅうなごんの唐風の呼び方とされていますから、四条中納言と思われます。であれば、藤原定頼ふじわらのさだよりの事でしょう。しかし、この方は1045年2月8日に逝去されている記述があります。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 すこし時代が違うと思いますので、四条家の家系を見ますと四条隆資という人がいます。最終的には大納言を任じられていますが、権中納言だったと推察します。これを唐風の呼び方で黄門と呼んだのかも知れません。

 であれば、四条黄門[四条隆資]と言うのは、この龍秋[豊原龍秋]と言う人の弟子と、雅楽研究所「研楽庵」【雅楽研究所】では言っています。

 であれば、『先達後生を恐るといふ事、この事なり』と言っていますから、どちらが先達であり後輩なのか、分けが解りません。

 普通に考えれば、龍秋と言う人が達人であり、その達人の人が笙の些細な作りについて考えている事に思慮深いと四条中納言が言っているのですから、 「流石先生は目の付け所が違う」と称賛すると思うのですが、『先達後生を恐るといふ事、この事なり』と言っています。

 であれば、この龍秋と言う人、すなわち達人が難しいと思っている事を、後進の輩は、難なくこなして上手く吹いていると言う事なのでしょうか。

 それとも、まだまだ先達の士がいて、龍秋が『後世』に当たるとすれば、この文章が良く分かるのですが、その辺りが明白ではありません。

 景茂[大神景茂]は、龍秋[豊原龍秋]と年齢は一つ違いですから、特に後輩と言う分けでもなさそうです。この人も達人と評された人らしいです。

 景茂[大神景茂]についても、雅楽研究所「研楽庵」【雅楽研究所】では、大神家について、笛で天皇の御師範をし、景茂は庶流を興したとの記載が見られます。

 同時代の同じ道の達人でも、考えが違うのでしょう。

 私は、どちらにも一理あると思っています。

 

 確かに景茂[大神景茂]の言うように道具は、使い方次第で如何様にも使い切る事が出来ると思います。また、そうでなければ一流にはなれないでしょう。『弘法筆を選ばず』と言うのと同じです。

 しかし、一方ではより高みを目指すのであれば、工夫が必要です。その道具が自分に合えば、景茂[大神景茂]の言う事も納得できますが、道具が出来たのは、自分だけの為ではありません。ですから、プロと言われている人達は、自分に合った道具を、匠の力を借りて作成するのが、今では一般的になっています。

 先述した『弘法筆を選ばず』と言うのも、一般的には弘法、すなわち空海さんは、筆の達人ですから、文字を書くのに筆を選ぶことがないと、解釈されています。
 
 私の僅かな知識では、空海さんは、その書体ごとに筆を選び、どの筆でもその筆に合った文字を書けたのだと理解しています。

 私も少し筆を使いますが、前にもこのブログで筆を購入した事を書きましたが、筆により、まったく書き味が違う事を身を持って体験しました。

 さて、景茂[大神景茂]、龍秋[豊原龍秋]の両達人、どちらが名人と呼べるのでしょう。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です