文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【109】

 今日の文字は『瞬時しゅんじ』です。またたく間とも言います。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百八段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 瞬時

 
☆【提案】<<<議員>>>

 随分前から、選挙に行くたびに思います。まったく人柄も解らない人に投票すると言うのも、国民の義務なのでしょうか。

 組織票にしても、その組織に加入している人の何割が、立候補者について、自分たちの国を任せる事の出来る資質かどうか、分っているのでしょうか。

 それで、色々思案をして、選挙制度などを考えて見ましたが、隣の人も解らないのに、代議員を選べるわけもありませんし、そんな資格もないと思いました。

 一つの提案ですが、4年制でも何年制でも構いませんから、議員を育成する学校を建て、その学校を卒業しないと、地方議員であろうと国会議員であろうと、立候補できない仕組みにしてはどうかと思いました。

 そして、選挙の時には、その人のその学校における活動を、入学時から卒業まで、成績も含めて、詳細に一覧表にして公開し、そのデータによって投票基準を国民が決めるというのは、如何でしょうか。

 この学校は、全て税金で賄い、入学金から授業料まで全て無料にして、国民の為の政治家を育てると言うのはどうですか。

 また、人の為に働こうと決心した人が、立候補するのに、お金がかかると言うのも、必要なくなると思います。この学校を卒業して、国の為に働こうと思える人が立候補するのに、お金を用意する必要性も感じられません。

 もちろん、中退した人、卒業しても議員になりたくないなど、色々詳細については、決めなければなりませんが、すくなくとも、誰が見ても『アホ』と思える人や、人間として悖るような議員や大臣を生む可能性は少なくなると思うのですが。
 
 朝からまた、ぼやいてしまいました。 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百八段 〔原文〕

 寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しといへども、これをかさぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人あきびとの一錢を惜しむ心、切なり。刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる、忽ちに到る。

 されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐることを惜しむべし。もし人來りて、わが命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか營まむ。我等が生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん。一日のうちに、飮食おんじき・便利・睡眠・言語・行歩ぎゃうぶ、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その餘りの暇、いくばくならぬうちに無益むやくの事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟しゆいして、時を移すのみならず、日をせうし、月をわたりて、一生をおくる、最も愚かなり。

 謝靈運は法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思ひを觀ぜしかば、慧遠えおん・白蓮の交はりをゆるさざりき。しばらくもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、修せむ人は修せよとなり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『一瞬を惜しむ人はいない。一瞬の大切さを知っているのか、それとも愚かなのか。愚かで怠惰な人のために言うならば、一銭は軽いがこれを積めば貧しい人でも豊かになれる。だから商人の一銭を惜しむ気持ちは切実である。瞬間は気が付かなかっても、瞬間が重なり過ぎ去って命の終わる時期を直ぐ迎える。

 ならば、仏道を修行する人は、まだ遠い将来だと思って、月日を無駄にしてはいけない。今この時空しく過ぎる事を惜しむ必要がある。

 もし人が来て、あなたの命は明日必ず失われると告げた時、今日の日暮れまでの間何を頼みに、何をしようと言うのか。我らが生きる今日の日と、明日死ぬ日とどんな違いがあるのか。
 一日のうちに、飲食、排泄、睡眠、会話、歩行など止められず、多くの時を使う。残りの時間が少しなのに、役に立たない事をし、無用の事を話し、価値のない事を思い、時を費やすし、日を過ごし、月を経て一生を送る事は、全く愚かである。

 謝霊運しゃれいうんと言う学者は、法華経の翻訳者であったが、心は常に風雲の思いを感じていたので、恵遠と言う僧は、彼が白蓮社と付き合う事を許さなかった。
 少しの間でも、精進しないのは死人と同じである。

 僅かの時間を何のために惜しむかと言うと、心に何も考えず、他に俗事をせず、止めようと思う人は止め、しようとする人はするためである。』

 

 

『瞬時』

 兼好法師の文章は、色々な事を一つの題材に詰め込もうとしているのか、それとも、徒然なるままに書くと、話しがあっちこっちに飛んでしまうのか、まるで、飛石の上を歩くように感じてしまいます。

 と言う私も、支離滅裂な文章になったり、話しが途中で脱線したりと、兼好法師の事を言う資格はありません。

 この文章も、さっと上辺だけを読むと、「光陰矢の如し」に尽きると思うのですが、引用する言葉に一貫性が感じられず、頭を抱えてしまいます。

 『一日のうちに、飮食おんじき・便利・睡眠・言語・行歩ぎゃうぶ、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。』この事をどのように解釈するかによって、展開が変わってきます。

 生きるために必要な事、食べる事、排せつする事、寝る事を、やむを得ず、すなわち仕方なく考える人がいるでしょうか。

 それは、確かに、寝る間も惜しんで、食べる時間も惜しんで、物事に集中する事もありますし、そんな時間をもったいないと思う事もあります。

 一食、食べるごとに、「お腹いっぱい」と満足しますが、またしばらく経つとお腹が減ります。寝貯めもできませんし、排せつの時間も、無駄に感じる事も、よくあります。

 だからと言って、これは他にどうすることも出来ない事ですから、『多くの時を失う』と言えますか、それでは、呼吸だって、無駄だと言っているのと変わりがないではないですか。

 この引用は、それら人間が生きるために必要な事を除けば、一日は残り少ないと言いたいのだと思う事にします。

 冒頭では『だから商人の一銭を惜しむ気持ちは切実である。』と塵も積もれば山となるような事を引用しながら、仏道の修行と対比させています。

 確かに読みようによっては、どちらも僅かな事の積み重ねであり、一瞬を大切にする事には違いありませんが、引用するのであれば、仏道の修行とは全く方向の違う事を持ち出す必要があるのでしょうか。

 最後の言葉『光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、修せむ人は修せよとなり。』にしても、一瞬を何のために惜しむかを説明するには、余りにも説得力が感じられません。

 私は、この理由を「心に何も考えず、他に俗事をせず、止めようと思う人は止め、しようとする人はするため」と解釈しましたが、どうもしっくりきません。

 頭の中を空っぽにし、社会生活を営まず、何を止めようとしているのでしょう。他の徒然草を現代文にしている人は、これを「修業したくないものはそれでよし、修業しようと思う人はしっかりと修業せよ。」(出典:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure100_149/turedure108.htm)
や、「悪を止めようとする人は止め、善を行おうとする人は行え」
(出典:http://roudokus.com/tsurezure/108.html) と書かれていますが、私には理解のしようがありません。この二つの解釈も、まったく意図がバラバラです。

 たとえばこれを「悪をやめよう・・・」としても、一瞬を大切にすることとどう結びつくのでしょう。あるいは、「修業したくないものは・・・・」としたとしても、やはり一瞬を大切にする事との関係がいま一つ解りません。

 こじつければ、話しが通じない分けではありません。

 例えば、「時間と言うものは、刻一刻と自分の意思や行いとは関係なく、流れて行き、気が付けば、死を前にしている。であれば、堕落な事は考えず、雑事に追われる事もなく、悪い習慣をやめ、今修行しようとする人は、直ぐにでも仏道の修行を始めるべきである」と、言うならば、理解できます。

 それでも、この仏道を修行する意味にはなりません。

 そこで、また、憶測にすぎませんが、兼好法師は法師ですから、仏道を修行する事は、自明であり、必要かつべからざるものであると信じているのであれば、この最後の文章も理解する事ができます。

 仏道を修行するのであれば、今すぐにでも始めないと、直ぐに一生は終わってしまいますよ。と言いたいのかも知れません。

 であれば、この仏道を修行する目的なり、理由をもっと、誠実に説明する必要があるのですが、一向にその内容を披歴する事がありません。

 もちろん、信仰と言うものは、理屈ではないと思いますから、説明されても仕方がないとは思います。人間は、生きている間に、色々な事に惹かれます。山に惹かれる人もいるでしょう。色々なスポーツや、芸術、あるいは文学とその数は無数です。

 信仰もこの心が惹かれると言う事がなければ、仏門に足を踏み入れる事もないでしょう。

 だからと言って、『しばらくもこれなき時は、死人に同じ。』とまで言うのであれば、少なくとも誘いの言葉があっても良いのではないかと思います。

 しかし、そう言いながら、兼好法師は、為世門の和歌四天王と呼ばれた程の和歌に対しては名人とも言える人です。この人が自然の趣に心が惹かれない分けではありません。

 とすれば、謝霊運しゃれいうんと言う学者と同じように、『しばらくもこれなき時は、死人に同じ。』と白蓮教を設立した恵遠えおんから、死人と言われてしまいそうです。

 このような話しを持ち出して、寸暇を惜しんで修行しなければならないと、言われても、説得力の欠片も感じる事が出来ません。反って、最後の言葉を自分で覆したような文章だと思いました。

 それとも、兼好法師は、死人と言われても、みやびやかで趣があり、自然の情緒を感じることを勧めているのでしょうか。