文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【113】

 今日の文字は『束縛そくばく』です。しばる事です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 束縛

 
今日の私の運勢 総合運49点(12位)おうし座

(占い@nifty  

 心が曇って元気がでない時は、晴れた空を思い浮かべてみて。何をやっても思い通りに事が運ばなかったり、気持ちをポジティブに向けようとしてもうまくいかない時は、太陽の光を浴びることで気持ちも明るくなるはず。

 なるほど、ちょっと、昼間に外に出て見ようかな。そう言えば何時太陽の光を浴びたか、記憶にありません。

恋愛運:★★★★☆
家庭的な面をアピールしてみて。今まで以上に絆が強まるはず。

 すでに、☆☆☆☆☆です。年齢のせいにしましょう。

金運:★★☆☆☆
自分にばかりお金を使って、人に対してケチケチしてしまいそう。

 残念ながら、自分に使うお金も、人に使うお金もない!

仕事運:★★☆☆☆
頑張ってもできないことがありそう。今日は早めに休憩すると吉。

 仕事はしてないけど、ブログが仕事かなぁ、では、早めに切り上げて、散歩にでも出かけましょう。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百十二段 〔原文〕

 明日は遠國へ赴くべしと聞かん人に、心しづかになすべからむわざをば、人 言ひかけてむや。俄の大事をも營み、せちに歎くこともある人は、他の事を聞き入れず、人の愁い・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば年もやうやうたけ、病にもまつはれ、況んや世をも遁れたらん人、亦これに同じかるべし。

 人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の默し難きに從ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は雜事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、道遠し、吾がしゃう既に蹉ださだ、(「だ」は足偏に它)たり、諸縁を放下ほうげすべき時なり。信をも守らじ、禮儀をも思はじ。この心を持たざらん人は、物狂ひともいへ。うつうなし、情なしとも思へ。そしるとも苦しまじ。譽むとも聞きいれじ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『明日遠くに行くと言われる人に、心を落ち着けてしなければならない事を頼むことがあろうか。

 急に起こった事を処理したり、やりきれなく嘆いている人は、他の事は耳に入らないので、他人の不幸や幸せを尋ねる事もない。だからと言って、なぜ、と恨む者もいない。

 であれば、よわいを重ね、病にもなり、まして遁世した人も、またこれと同じである。

 人間が行う儀式で避けられないものはない。世の中には無視できないと言う理由で、これをやると、望みも多くなり、身も心も多忙になり苦労する。一生は雑事に追われ、空しく暮れる。日が暮れ、先は遠く、人生が思うようにいかない。色々な縁を解き放す時である。

 信義も守る必要がない、礼儀も必要ない、この気持ちを持たない人は、狂っていると言い、正気の沙汰ではない、非情と思い、悪口を言うだろうが、別に苦しむ必要はない。褒められても聞き流す。』

 

 

束縛

 ここでも、私の常識からは、納得の出来ない例が引き合いに出されています。

 老人と、病人と、遁世を同列に並べられると、出家して僧侶になろうとする人のやる気を削ぎませんか。

 当時の老人は、役立たずとして扱われたのでしょうか。今でもその傾向は捨てがたいと思いますが。

 この文章は、如何に仏道に目覚め、今すぐにでも世の中の雑事から解放され、出家する事が大切なのだという、仏道への、そして出家への誘いであると思います。

 しかし、いつも言いますが、説得力がありません。

 それほど、魅力的な遁世であり出家であれば、その魅力を書くべきだとおもいます。

 にも拘らず、兼好法師は、この徒然草で、世の中の事、僧侶の事、仏教界の事、ことごとく非難し続けています。

 世の中を捨てたのですから、世の中の批判は仕方がないとしても、世俗を捨てて僧侶になった人が、その業界を批判すると言うのは、如何なものでしょうか。これでは、兼好法師が自分で自分の居場所を無くしているようにも見えます。

 また、それでは、唯一自分が正しくて、意に反する事は全て批判して、一生を終えるつもりでしょうか。

 であれば、なんと空しい人生だと思います。にもかかわらず、自然を愛し、風雅に興味を持ち、和歌に勤しむ、なんとも、支離滅裂な生き方だと思います。

 この文脈では、ただ煩わしさから逃れるため、世俗からの逃避としての遁世としてしか映りません。

 確かに、人生は山のように煩わしい事の連続です。

 徳川家康の遺訓、

『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。』

 の通り、社会生活を全うしようとすると、逃げたくなる気持ちも分からないでもありません。

 ただ、逃げるだけでよいなら、だれでも、投げ出したくなる事もあると思います。

 ならば、その逃げた先の魅力を語るべきではないかと思います。兼好法師は、この徒然草を通じて、色々な事を徒然なるままに書き綴っていますが、今のところ、出家や遁世の勧めはあるものの、その重要性を語る事はありません。

 現代文をもう少し簡略化して見ましょう。

【1】やむを得ない事情により、雑事が出来ない人や心配りが出来ないからと、文句を言う人は居ない 、その事と、老人・病人・遁世者は同じ事である。
【2】色々な行事、雑事を正確にしようとすると、もっときっちりしようと思う。そうすると肉体も精神も忙しくなり、一生雑事に追われてしまう。
【3】であれば今諸縁を放棄すべきである。
【4】放棄する時には、人から何と言われようとかまわない。

 
 一見、論理的に見えます。

 さて、【1】と【2】からなぜ【3】の結論に結びつくのでしょう。もし、結びつけるとしたら、「事情があれば、文句を言う人は居ないし、一生雑事に追われるような事は、今すぐ止めて、世俗の束縛を解いた方が良ろしい。たとえ周りから何を言われても、放っておきなさい。」と最後に【4】を繋げると意味は通ると思います。

 しかし、こう読むと、やはり、投げやりにしか見えません。そして、ここでも世俗の束縛から逃れる場所、すなわち出家の素晴らしさも、啓蒙する事もありません。

 これは、皮肉に聞こえますが、もしかしたら、奥ゆかしさなのでしょうか。それとも、その良さは、出家して僧侶にならなければ、理解できないとでも言いたいのでしょうか。

 こんな理由で、みんな世俗を捨てたら、社会は崩壊するでしょうね。時々思いますが、宗教は社会の崩壊を狙っているのかも、と。

 確かに雑事と言えば、人間のやっている事は、雑事に違いないと思います。それでも、何千年と人は、その人生を歩んでいます。少し見方を変えれば、無駄な事と思えますが、では、その無駄な事と言っている側を見た時に、果たして無駄ではないと感じる事が出来るのでしょうか

 私は、本来の釈迦の教えには、人を惹きつけるものがあったのだと思います。しかし、このような遁世の勧め、出家への誘いで、果たして人を説得できるのでしょうか。

 兼好法師のこういう段があるたびに、興ざめしてしまいます。