文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【122】

 今日の文字は『無用むよう』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百二十段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 無用

★『ゴーン容疑者解職、22日に提案 日産、第三者委調査や刑事告発も』
(共同通信社 2018/11/20 00:57)

「日産自動車の西川広人社長は19日、横浜市の本社で記者会見し、代表取締役会長を務めるカルロス・ゴーン容疑者の解職を22日の取締役会で提案すると明らかにした。同容疑者を訴えるのかとの質問に「当然値する事案だと認識している。これから判断する」と述べ、刑事告発や損害賠償請求を検討する考えを示した。第三者委員会を早急に設置し、不正の背景を調査することも表明した。

 三菱自動車も19日、ゴーン容疑者の代表取締役会長職を速やかに解くことを取締役会に提案すると発表。ゴーン容疑者が会長兼最高経営責任者(CEO)を務めるルノーも近く取締役会を開催し解職を議論するとみられる。」

 余りの巨額なので、ピンと来ませんが、それでも、この話題を載せない分けにはいかないと思い掲載しました。

 通常の脱税とは違い、有価証券報告書の記載を5年間に50億円も過小に申告したようですが、個人なのか法人なのか内容が呑み込めない状態です。

 しかし、(共同通信社 )では、『東京地検特捜部は、会社からゴーン容疑者への利益供与で有価証券報告書への記載義務のある報酬に当たるとみて、詳しい経緯を調べている。』と書かれていますから、何らかの個人的な利益供与にあたるのでしょう。

 確かに一時は日産の救世主であったと思われますが、人の欲はどこまで大きいのでしょうか。ほどほどが解らない人なのでしょう。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百二十段 〔原文〕

 養ひ飼ふものには馬・牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は、守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなん。

 その外の鳥・獸、すべて用なきものなり。走る獸は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、に入れられて、雲を戀ひ、野山を思ふ愁へ、やむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを樂しまんや。しゃうを苦しめて目を喜ばしむるは、けつちゅうが心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に樂しぶを見て逍遥しょうようの友としき。捕へ苦しめたるにあらず。

 「凡そ、珍しき鳥、怪しき獸、國に養はず」とこそ文にも侍るなれ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

『 養い飼うものに馬・牛。繋いで置くのは可哀そうだが、無くてはならない物なので、如何ともしがたい。犬は守り防ぐことには人より勝っているので必要である。しかし、家ごとに飼っているいるので、殊更探し求めるには及ばない。

 その他の鳥や動物は、すべて無用である。走る動物は檻に閉じ込められて、鎖も付けられる。飛ぶ鳥は翼を切られ、籠に入れられ、雲を慕い、野山を思い憂う気持ちの止むときがない。その思いが我が身に感じ堪えがたい心ある人は、これを楽しめるだろうか。

 生きている物を苦しめて、目を楽しませるのは、けつちゅうと同じである。

 王子猷が鳥を愛したのは、林で鳥が楽しむのを見て逍遥しょうようの友としたので、捕まえて苦しめる為ではない。
 「およそ、珍しい鳥、奇妙な動物は、国で飼わない」と文献にも書かれている。』

【参照】
けつちゅう:中国、夏の桀王といんの紂王。暴虐驕慢きようまんの君主のたとえにいう。
逍遥しょうよう:気ままにぶらぶら歩くこと。そぞろ歩き。
(出典:大辞林第三版 三省堂.)

 

 

『無用』

 現在のペットブームを見て、兼好法師は何と言うでしょう。開いた口が塞がらず、一言も無いかも知れません。

 いま、ペットと書きましたが、家畜以外の動物で、飼うとなるとペットが浮かびましたが、その他にも研究の為に飼育している所もあります。

 兼好法師の時代では、馬や牛は、荷物を運ぶためとか、車を引っ張るために飼育していたのでしょうか。

 ですから、安土桃山時代でも、『ジャン・クラッセ の『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれている。』(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)とありますから、牛や豚などを食用として飼育していた分けではないようです。

 不思議なのは、犬は番犬として、そこら中で飼われていたようです。なんと、人間と犬との付き合いは、縄文時代に遡ると言われています。

 聖徳太子は、実在の人物ではないという、歴史学者もいるようですが、その愛犬の「雪丸」が、人の言葉を話せたと言うのは眉唾物です。しかし、既に飛鳥時代以前から、犬は家族の一員であったようです。

 猫もまた大昔から人間と一緒に生活しています。有名なのは古代エジプトですが、日本にも仏教の伝来と共に猫は、中国からやって来たようです。記録としては、平安時代の889年に宇多天皇が唐から黒猫を貰っています。また、「枕草子」「源氏物語」にも登場しますから、猫も古くから人間と生活を共にしていたのでしょう。

 兼好法師は、犬は必要と書いていますが、猫は必要とは書いていません。ですから、兼好法師にとっては、他の鳥や獣と同じ扱いだったのかも知れませんが、猫の場合は上流階級や貴族の間で飼育されていたようなので、そのやっかみかも知れません。

 当時も今も、ペットは人間にとって、と言うより人によっては、家族の一員だと思います。

 よく、癒しと言いますが、癒しだけではないように思います。よく、公園で練習している時に、朝早くから、犬を散歩させている人を見ますが、排泄物の処理を見ていると、どっちが主人だか分かりません。とうの本人(犬)は、偉そうに、人が自分の排泄物を処理しているのを横目で見ています。

 という、私も猫の排泄物の処理をしていますが。特に私の場合は、人との接触がいたって少ないものですから、癒してもらっている感覚は既にありません。まぁ、同居人って所です。

 私は、幼いころから犬や猫が家にいましたが、犬を6匹、猫を2匹、ひよこを1匹亡くした事があります。何とも寂しく感じます。生きている物は、いつかは亡くなってしまいます。

 ひよこは、夜店で買ってきたものですが、すりこみと言うのか、会社から帰ると、いつも私の後ろをついて歩いていました。そして、トサカまで生えて来たとき、会社に妻から電話があり、亡くなったと聞きました。

 実は、この春4月10日に、このブログの相棒の1匹、一番上の写真、二匹の猫の右側でのんびり寝そべっている、アーちゃんが亡くなりました。ペットロスと言うらしいですが、しばらく落ち込んでいたと思います。このブログにも、なかなか、報告する気持ちになれずに、今にいたっています。たまたま、ペットの話になったので、遅ればせながらお伝えします。

 今は、もう一匹の相棒、錬と仲良くしています。しかし、錬も相当老人、いや老にゃんなので、また寂しい思いをすると思います。困ったものです。少なくとも、ペットを置いて死ぬことは、したくはないと思います。それは、ペットを飼うための条件だと思っています。ですから、新たにペットを飼う気持ちはありません。

 それにしても、『「凡そ、珍しき鳥、怪しき獸、國に養はず」』と誰がどういう意図で言ったのでしょうか、確かに今は、外来種と言うものがはびこり、日本の生態系が壊されて、対策に追われているようです。

 しかし、今では動物園の存在が、子供の教育に貢献していると思います。