文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【39】

 今日の一文字は『利』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三十八段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 栄達 智慧

 
 朝から快晴。すこし気温も低めだと感じています。湿度が低いのでしょうか。温度は今日も35度近くまで上がりそうです。

 どうもスポーツ指導の在り方も、考えないといけない時代になってきたようです。

 実際に暴力と言えないものまで、暴力と受け取ってしまったり、逆にそれは暴力だろうと思う事まで、我慢する選手もいます。個人差があるのは、ハラスメント特有の難しさでしょう。

 私は勝つ事至上主義に、もともと賛成していません。スポーツの試合そのものに対しては反対はしていません。それは人生の僅かの間の出来事が、その人の人生をより良く出来るのであれば、大いに試合を謳歌すれば良い事です。

 勝つ事を目的にすると、指導者も選手も、一定の基準を越えなければならない事も出来ます。でなければ、世界の選手と肩を並べる事が出来ないでしょう。

 やはり、選手と指導者との関係、そして十分にお互いが理解できるような話し合いの上で、練習があるべきでしょう。

 これまでの、だまって俺についてこい。私の時代にはヒーローであった指導者も、今では通用しなくなっています。

 だんだんと、コーチと選手の間に、誓約書のような契約が必須の時代になるのかも知れません。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第三十八段 〔原文〕

 名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。

 たから多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、煩ひを招くなかだちなり。身の後にはこがねをして北斗を支ふとも、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 埋もれぬ名をながき世に殘さむこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやはいふべき。愚かに拙き人も、家に生れ時にあへば、高き位にのぼり、驕りを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから卑しき位にをり、時に遇はずしてみぬる、また多し。偏に高き官・位つかさ・くらゐを望むも、次に愚かなり。

 智惠と心とこそ、世に勝れたるほまれも殘さまほしきを、つらつら思へば、譽を愛するは人の聞きを喜ぶなり。譽むる人、そしる人、共に世に留まらず、傳へ聞かん人またまた速かに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られんことを願はん。譽はまたそしりもとなり。身の後の名、殘りて更に益なし。これを願ふも次に愚かなり。

 たゞし、強ひて智をもとめ、賢をねがふ人の爲に言はば、智惠出でてはいつはりあり。才能は煩惱の増長せるなり。傳へて聞き、學びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一條なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か傳へむ。これ、徳をかくし、愚を守るにあらず。もとより賢愚・得失のさかひに居らざればなり。

 迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。萬事はみな非なり。いふに足らず、願ふに足らず。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『名誉と利益に翻弄され、静かに落ち着く暇もなく、一生苦しむのは馬鹿らしい。

 財産を持つと身を守る事も疎かになる。厄介な事や煩わしい事を招く本になる。
 
 北斗星を支えるほど財産を積み上げても、死後、財産を引き継いだ人も、この財産を守るのに煩わしいので人の為にならない。
 愚かな人の目を楽しませてもつまらない。大きな車、よく肥えた馬、宝飾品も、賢い人から見ると愚かと思われる。金は山に捨て、宝飾品はよどみに捨てれば良い。利に惑わされるのは実に愚かである。

 後世まで名を残したいと、誰しも思うだろうが、身分が高く高貴な人だけが優れた人とは言えない。

 愚かで卑しい人でも、家柄の良い家に生まれて、運が良ければ、出世してわがままな振る舞いができる。

 素晴らしい賢者、聖人が、自ら卑しい身分のまま、時流を避けて、人生を終える場合も多い。
 只管、高い身分や職位を追い求めるのも、財力を求める次に愚かである。

 智慧と心が優っていると言う名声を残したいが、それも世間の評判を気にする事だ。褒める人も、貶す人もみんな死んでしまう。名声を伝え聞く人も同じである。

 誰に恥るのか、誰に知られようと願うのか。
 誉は、そしりの本である。死んで名など遺しても意味がない。こんなことを願う事は、次に愚かな事である。

 ただし、知を得て、偉くなろうと思う人のために言えば、知識は、偽りも呼び、才能は煩悩の産物とも言える。伝えて聞き、学んで知ったことは、本当の智慧では無い。

 何を智というべきか。可も不可も同じ線上にある。何をもって善と断定できるのか。真理を悟った人には、智も徳も功も名も無い。そう言う人を誰が知り、誰が伝えられるのか。

 このような人は、徳を隠すが、愚者のようでもなく、もとから賢愚、損得の世界に身を置いてはいない。

 迷った心で名利を求めると、こんなことになってしまう。すべて道理に反している。

 名利など、言う事も、願う事も必要ない。 』

 

『栄達』

 「立身出世」と言う言葉も、現在では一般的ではないのかも知れません。

 私が幼いころには、「末は博士か大臣か」を目指して勉学に励むのが一般的傾向にありました。

 この言葉には、経済力よりも、偉くなる、人の為になりたい。そんな意味が強かったように思います。

 いつの間にか、偉くなると金持ちになれる。良い大学を出ると裕福な生活と安定した人生が待っている。そんな風潮になって来たように思います。

 これは、親が子に対して期待したり、子供の将来を思っての事もあったのでしょう。

 しかし、これも今考えると、行き過ぎてしまったのでしょう。結局は生み出すよりも、奪い合いを優先するのですから、勝つ事が全てに優先してしまう世の中になってしまいました。

 戦後はみんなが裕福では無かったので、何とか日本が裕福になろうと、手を取り合って生産性の向上を図って来たのでしょう。それが少し余裕が出来てくると、人よりも裕福になろうとします。

 現在災害地にある人は、戦後の日本と同じで、手を取り合って復興に全力を注ぎます。

 そのまま絆が深まれば良いのですが、人間の性とも言うべきか、人よりも少し裕福になりたい気持ちも理解できます。

 歴史が証明するように、行き過ぎた考えはいつかは破綻をきたします。

 栄達の結果が、現在の官僚や医師、議員であるとすれば、一部の人達だとは思いますが、残念でなりません。

 その一部の人達がルールを犯して、毎日のようにニュースになります。

 この人達も行き過ぎてしまったのでしょう。ブレーキが効かなくなってしまうのでしょう。このぐらいなら、という気持ちが起こった時には遅すぎるかも知れませんが、ブレーキを掛けるキッカケにしてほしいものです。

 晩節を汚すどころか、人生を誤ります。

 私は、「栄達」も「名誉」「利益」も、生きていくための指標としては、そんなに悪い事ではないと思います。

 日本人は流されやすいと言われています。ですから日本人である個人も、同様の性質があると思われます。ブレーキが効かなくなる傾向にあります。

 ブレーキと考えている間はまだしも、突っ走る事が良いと思える人種なのでしょう。いや、資本主義社会の盲点かも知れません。

 国際社会が一斉に走っていますから、その流れに巻き込まれます。いやその流れに乗らなければ、国際競争に勝つ事が出来ないと考えてしまいます。

 右肩上がりに将来はない事は、少し立ち止まって考えると解りそうなものですが、日本人は、いや世界がそういう傾向にあるのかも知れませんが、まだ右肩上がりの頂点ではないと思えるのでしょう。

 スポーツの記録は、少しづつ目標を上げて行けば良いでしょう。しかし、経済の発展のほとんどは、容量の決まった物の奪い合いに過ぎません。

 どこかで、「足るを知る」事に耳を傾けても良いと思います。この「足るを知る」と言う言葉を、「競争心を削ぐ」言葉に捉えたり、権力者の方便と捉える人もいますが、実際にそのようにこの言葉を使う、権力者もいるでしょう。

 自分は栄耀栄華えいようえいがに暮らしながら、下の者には質素倹約を奨励する事も、歴史上でも、そして今でも見る事ができます。こういう人には自覚しているかとどうかは、解りませんが、特権意識が必ずあります。自分は特別な存在であると思っていると言う事です。ですから、サイコパスと言われるのです。

 これは、帝王学などの教育によって、幼いうちから刷り込まれると、正しい考えと思い込んでしまうものです。自分は他の者とは違って優れていると。

 洗脳やマインドコントロールと呼ばれるものも、そうですが、これもサイコパスと同様の考えの人になります。

 もし、私が昔言われたような、変なプライド、いわゆる根拠の無いプライドを持っている人がいるとしたら、今のうちに訂正しておいた方が、豊かな人生を送れると思います。

 もちろん、その人の価値観ですから、そのまま権力を持ち続け、栄耀栄華に暮らして一生を終えられれば、その人は幸せな人生を送る事ができると思います。あくまでも、老婆心に過ぎません。

 

『智慧』

 ここで言われている内容は、仏教の教えそのものだと思います。兼好法師ですから、お坊さんです。当然と言えば当然の内容だと思っています。

 しかし、その当然と思われる事には、仏教としての真理があります。この仏教は宗教としての仏教ではなく、仏陀の教えと言う意味での仏教です。

 悟りを開くと言うのは、真理を知ると言う事ですから、人間は色々な考えで人生を終えますが、迷いながら道を進み、迷いながら一生を終える生き物です。

 ですから、日本人としては最高の権力と財力を得たと思われる、徳川家康でさえ、

 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば害その身に到る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

 と遺しています。
 
 先ほどの末尾に、「その人は幸せな人生を送る事ができると思います。と書きましたが、あくまでも、その人の価値観が名誉や名利と言われる事にあり、栄耀栄華に暮らす事が、その人にとって幸せと感じる場合に限定されます。

 人の価値観ほど多岐に渡っているものはありません。例えば沢庵和尚とか良寛さん、近年では種田山頭火など、私が知らないだけで、貧乏で偉い人は、山ほどいると思います。この人達も充分に幸せな人生だったと思います。と、言うよりも、この人達こそ、本当に幸せな人生を暮らしたのではないでしょうか。

 この歳になると、「誰をか恥ぢ、誰にか知られんことを願はん。」という
事が現実になってきます。

 この徒然草のように、「利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。」と書かれてあるように、財力に心を奪われ惑う人は、取り分け愚かな人であると断定されていますが、現在でも、なんら変わる事もないようです。ちなみに、「すぐれて」と言うのは、 「きわだって。とりわけ。」(出典:学研全訳古語辞典 学研.)と言う意味で捉えました。

 「もとより賢愚・得失のさかひに居らざればなり。」は、至言と思います。

 偉い人は、もともと賢いとか、馬鹿だとか、得だとか、損など考えてもいない世界にいるのでしょう。

 そんな世界に住みたいものです。それが悟りと言うものだと思います。

 人間には、そんな世界を垣間見る事の出来る機会も与えられて、この世に存在しています。

 できれば、右往左往して人生を終えるより、 賢愚・得失を超越した世界を終の棲家ついのすみかにしたいものです。