文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【41】

 今日の一文字は『姿』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四十段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 姿

 
 昨日、東京書道教育会から4段合格の通知が来ました。5段制なので、あと一つですが、課題は5つです。

 正師範に合格してからの課題に半切(34.8cm×136.3cm)が多いので、かなり集中力がいります。半紙は座って書けますが、半切は立って書きますので、体力もいります。

 一度書き始めると、2時間から3時間ほど、前かがみになって書き続けますから、足腰を鍛えていないと書けません。

 いつも、朝一の体操を1時間ほどやりますので、すでに足腰が疲れた状態で始めます。やはり歳のせいか、腰に負担がかかります。

 なんだか、台風21号が近畿地方に向けてやって来そうです。9月3日から4日にかけて、紀伊水道を北に向かいそうです。風速55mと猛烈な台風が予想されています。

 まだ前回の被害から回復していない地域もあると思います。前回の20号と同じように進む場合も考えられますので、くれぐれも用心してください。

 体操協会、大揉めですね。真意のほどは分かりませんが、私は、団体の役員は出来るだけ早く後進にバトンタッチすべきだと思っています。

 特に、利害関係のある人が、団体の要職につくと、ろくなことにはなりません。それが生計と繋がる事をしている人は、役員にならない方が良いと思っています。痛くもない腹を探られる事になります。どちらが正しいのか分かりませんが、過去にも同じ事を繰り返しているようですから、繰り返すようなシステムから見直した方が良さそうです。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第四十段 〔原文〕

 因幡いなばの國に、何の入道とかやいふものの女、かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更によねのたぐひを食はざりければ、「かゝる異樣のもの、人にまみゆべきにあらず」とて、親ゆるさざりけり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『  鳥取県に某在家の僧の娘が美人であると聞き、多くの人が言い寄って来たが、この娘が、ただ栗だけを食べ、さらに米などは食べない、「こんな風変わりな娘を人に会わせるべきではない」と言って、親が許さなかった。』

 

『姿』

 この文章は、兼好が何を言いたいのか、理解に苦しみます。

 上辺だけ読んでも、なぜ、栗だけを食べるのかも理解できませんし、米なども食べない人って、その時代にいたのでしょうか。

 それを風変わり、原文では異様と言う言葉を使っていますから、風変わりと訳すのも間違いかも知れません。

 この美人で風変わりな女性を、どう表現していいのかもわかりません。

 もう少し、穿った見方をして見ましょう。

〔親心〕

 某在家の僧侶は、自分の娘が美人で、周りの人が騒ぐので、予防線を張っていると考えるのはどうでしょう。

 うちの娘は変わり者だから、言い寄るのはやめて欲しい。そんな思いでそんな噂を流したのかも知れません。

 噂に上るほど美人の娘を持つ、親の警戒心からでた嘘だったとしたら、もう少しましな嘘をつけば良いと思うのです。

 栗は季節を選びますから、栗ばかりを食べている分けにはいかないと、邪推してしまいます。

 よく似た文字に「粟」と言うのがありますが、「粟」は米の類ですから、字を間違った分けでもないでしょう。

 それにしても、兼好法師は全国各地にその足跡がありますので、もしかしたら因幡いなばの國にも居た事があるのかも知れません。

 鎌倉や比叡山、神奈川や大阪の阿倍野にもその足跡を見る事ができますから、因幡いなばの國と縁がなかったとは言えません。

〔邪推〕

 この文章には、もう一つ疑問が残ります。「入道とかやいふものの女」です。この「女」を娘と訳しました。理由は、最後の「親ゆるさざりけり。」の文言です。

 古語辞典によりますと、斎娘・傳娘と言う言葉もあります。その意味は大切に育てている娘。愛娘。です。とすれば、ここは在家僧侶の妻と言う考えも浮かびます。当時は人の妻に恋文を送る事もあったと記録されています。

 もちろん、古文では「いふものの女」の「の女」と言う言い方は『娘』を表す事が多いとの記述もありましたので、やはり「娘」とした方が良いのかも知れません。ちょっと憶測が過ぎました。

〔絆〕

 現在は、親が許すとか許さないとか、関係ない時代になりました。本人の意思が何より優先されます。

 私が結婚した当時でも今の法律と同じでしたが、やはり親の承諾があって初めて事が運ぶという時代でしたから、映画、小説やドラマなどでも、親に反対されて、駆け落ちするなど、悲恋物語があったように思います。

 これも、私は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を若い人も考えても良いと思っています。

 親が色々体験や経験、又は見聞きした出来事から、口を挟むのですが、これも全てが、小さな親切大きなお節介では無い事もあります。

 もちろん、時代が違うと言う部分もありますし、当事者にしか理解出来ない事もあると思います。

 最近は、親子の関係も希薄になって来てると思います。これは良い面もありますが、悪い面もあります。個人にとっては良い面だけしか見えないと思います。これは、子供も親に対しても言える事で、絆が強い分だけ、煩わしくなるのは理解できます。

 特に都会で暮らす私たちは、隣の人との繋がりも、昔のようではありません。プライバシーと言う名のもとに隔離された生活をするようになりました。

 個人主義もどこかで歯止めをかけないと、社会的な動物としての人間の行く末が案ぜられます。

 それにしても、「栗」の謎が解けません。なぜ、この絶世の美女は、栗を食べていたのでしょう。