文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【52】

 今日の一文字は『専門』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第五十一段』を読んで見て、感じた文字です。

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 今朝は、大騒ぎでした。妻に起こされて、時計を見たら朝の3時半。火事の模様。確かに外に出て見ると、警報器が大きな音で、「火事です。6階・・・」が聞こえてきます。このマンションから聞こえているようですが、火の手は見えません。

 音が聞こえる方に行って見る途中で、マンションの切れ目に来ると、まったく違う方から、警報の声が聞こえて来ました。

 「火事です。6階・・・」の声が繰り返し聞こえます。その声の方に歩いて行くと、どうも300mは離れているマンションから、聞こえているようです。しかし、煙も火も見えません。

 しばらくすると、消防署の人の声か、女性のアナウンスが、誤報である事を伝えていました。

 今日は、久しぶりに良いお天気です。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第五十一段 〔原文〕

 龜山殿の御池に、大井川の水をまかせられむとて、大井の土民に仰せて、水車みづぐるまを作らせられけり。多くのあしを賜ひて、數日すじつに營み出してかけたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、徒らに立てりけり。さて宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかにひて參らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事、めでたかりけり。

 萬にその道を知れるものは、やんごとなきものなり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『龜山殿(後嵯峨上皇の院御所)の池に、大井川の水を引き入れるため、大井の近所の人に言いつけて水車を造られた。
 多くの金銭をいただき、数日急ぎ勤めて設置したが、まったく回らず、あれやこれやと修理したが、ついに回らなかった。無駄に立っていた。

 それで、宇治の住民を呼び出し造らせた。簡単に組み立てたが、思うように回り、水を汲み上げる事ができたのは、見事であった。

 どんな事でも、その道に通じた者は、尊ぶべきである 』

 

 

 

『専門』

 私は、10回も職業を変わっています。というより、転々と職業を変えた、と言った方が正しいでしょう。

 その理由は、自分勝手な事もありましたし、止む終えぬ事情があった事もありました。また、人間関係にうんざりして、自ら退職した事もありました。時には、在職している会社が倒産した事もありました。

 しかし、いくつかは、身に付いた専門知識や技術が、その後の生活に役立つ事になりました。

〔時計屋〕

 まず、時計屋さんでの専門知識と技術は、今でも置時計位なら修理する事が出来ます。もちろん、ゼンマイ式ですが。

 時計屋と言うのは、機械式の機械であれば、なんとなく構造を想像する事ができるようになります。ですから、時計に限らず、機械式の部分は、ほとんど修理できるようになるものです。

 何と言っても、道具を使えるようになります。ピンセットやねじ回し(ドライバー)も、小さい物になると、使い慣れていないと、難しいようです。

 今はハズキルーペのような物が売っていますが、私は、キズミという、片目にはめる物が使いやすいので、今でも持っています。

 さすがに、目が悪くなっているので、腕時計は無理かも知れませんが、それもやってみると、意外と直せるかも知れません。

〔フィニッシュワーク〕

 これは、印刷業界の版下を作る工程です。印刷する原版と言った方が分かり易いかも知れません。

 今では、もう使われていませんから、技術的には使いようがありませんが、和文タイプライターも、そこそこ打てるようになりました。しかし、コンピュータの出現で、一気に廃れてしまいました。

 しかし、この間にレタリングの通信教育を受けて、文字を書けるようになりました。これも、一つの技術だと思います。ただ、ほとんど役には立っていません。

 印刷関係の仕事をしていて、一番役立ったのは、レイアウトの仕方です。当時ナショナル(現在のパナソニック)の雨どいのカタログの版下(一部)を作っていましたので、作成しては直され、直されては作成する、と言った毎日が続き、この事によって自然にレイアウトが見に付いたと思います。

 しかし、これも、業界や物により、ルールがあり、その業界に合わせる事が必要だという事も知りました。

 ちなみに、書道のレイアウトは、私の知識では役立ちませんでした。しかし、白紙から覚え直す必要がない分、上達はしやすいと思います。

〔不動産業〕

 不動産業をしていた頃に、なぜか、法律上の相談を受ける事が多く、その為に、対立する相手が弁護士の先生の場合もありましたので、それなりの法律知識が必要になりました。

 もちろん、宅地建物取引主任者の免許はとりましたので、宅地建物取引業法については、知らなければ試験に通る事ができません。

 ですから、六法全書や契約書の作り方の書籍はいつも使っていました。中でも民法に関しては、結構勉強した事が記憶にあります。

 ただ、「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」と昔の「君の名は」(菊田一夫原作)を思い出しますが、今は、忘却の彼方、と言った方が的を得ています。

〔コンピュータ〕

 これでも、大阪で開かれたマイコン(マイクロコンピュータとかマイ・コンピュータ)の第一回目の受講者の一人です。受講者と言っても確か4、5人だったと思います。

 主宰は大阪商工会議所だったのですが、受講者だったと言うだけで、皆目理解せずに帰ってきました。

 それから、何度コンピュータを買った事でしょう。少し勉強しては投げ出す事が続きました。

 ある会社の工場長をしていた頃に、生産管理にコンピュータを導入するよう提案し、上新電機のシステム開発部と相談しながら作ったのですが、上新が作って来たソフトの入力に一日8時間以上もかかるものを提出されたのです。

 それでは仕事になりませんので、そのルーチンだけ、私が考える事にしました。で、出来上がったソフトでは、入力時間が10分と飛躍的な改造に成功したのです。

 今では、当たり前の検索の仕方ですが、その当時は、私が考えた検索方法も一般的では無かったようです。ちょっとした、自慢話です。

 それから少し、コンピュータのプログラムに興味を持ち、マシン語、フォートラン、ベーシック等をかじったのですが、物にはなりませんでした。

 不動産業をしている時に、会計ソフトを作りました。これはFベーシックと呼ばれる言語で、富士通が提供しているBasic言語です。

 一応作る事が出来ましたが、これがキッカケで、色々なものを作れるようになりました。それからしばらくして、「桐」と言うデータベースのソフトで、プログラムが書けるものが売り出されました。当時は、dBaseを使っていましたが、直ぐに乗り換えました。

 管理工学研究所と言う会社のものです。管理工学研究所の勉強会にも何度か参加した事がありました。当時はまだ「桐」の完成度が低く、何度もバグを見つけては、担当者に連絡した事がありました。

 この時勤めていた会社では、プログラマー兼経営管理者として勤めていましたが、会社が倒産してしまい、この「桐」との付き合いが終わる事になりました。

 次の会社では、マイクロソフトのソフトで統一されていましたので、Accessと言う「桐」と同じようなBasicを基に開発されたプログラムが記述できるデータベースを扱う事になりました。

 その頃には、大体1ヵ月くらいで、新しいプログラム言語をある程度習得できるようになっていましたので、より便利に感じました。

 永い間コンピュータに携わっていいたお陰で、会社でもコンピュータの配線から、ソフトの選択やコンピュータの選択にも役立つ事になっていました。

 会社で使うソフトを幾つも作ったのも、この頃です。

 このブログでも、簡単にブログが書けるように「wordPress」と言うソフトを使っていますが、それでも、結構専門的な知識が必要になります。そんな時には、今までの経験が役立っています。

 コンピュータのプログラムを少しかじったお陰で、アルゴリズム的な考えで、ものの構築ができるようになったのも、コンピュータの成果だと思います。

 実際に専門知識や専門技術と言っても、体験し失敗し、の繰り返しで身について行くと思います。

 現に私は、交通工学科と言う、橋や道路を作る事が専門であるはずですが、学校を出てから、直ぐに父の経営する時計屋に勤めましたので、まったく専門知識もありません。また、勉強して試験に通ったから専門の知識や技術ができるものでもありません。

 なんでも、やってみないと、解らなことがあります。

〔得意〕

 と、色々専門的な知識と技術を習得しているような、書き方になりましたが、私の知識と技術は、三流以下で、すべて中途半端だと思っています。

 今、まだ30歳を超えていない人が、いや幾つからでも、このブログを読んでいたら、何か一つ、これなら自信があると言う位の、専門知識と技術を身に付けると、これからの人生に、強い味方になってくれると思います。

 現に70歳を目前にお習字を始め、71歳の時には正師範と言う称号を得る事になりました。いつからでも、やる気さえあれば、できるものです。

 と、ちょっと自慢しましたが、まだお習字は五流以下でしょう。それも判らないのですから。