文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【61】

 今日の文字は『芋』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第六十段』を読んで見て、感じた文字です。

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 昨日、ブログの更新をしてから、山本”KID”徳郁さんの訃報を知りました。彼の天性のファイトは、非常に興味深く思っていた事がありました。

 特に、自分の間合いに入ってからの攻撃の素早さは、まるで野獣のような鋭さがあったと思っています。

 私は、彼の素晴らしく鍛えあげた肉体よりも、身体機能の高さに驚いていた一人です。

 若い時の癌の進行は速いと言われていますが、私の友人も膵臓癌で、あっと言う間に逝ってしまいました。

 遅ればせながら、ご冥福を祈ります。

 私くらいの歳になって、亡くなるのは、諦めもつきますが、若い人の死は、なんとも寂しいものです。残念ですが、これも世の定めなのでしょう。
 
 今日は、一日中雨模様、気温も上がらいようです。身体に気を付けて、一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第六十段 〔原文〕

 眞乘院しんじょういんに、盛親僧都じょうしんそうずとて、やんごとなき智者ありけり。芋頭いもがしらといふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝もとにおきつゝ、食ひながら書をも讀みけり。煩ふ事あるには、七日なぬか二七日ふたなぬかなど、療治とて籠り居て、思ふやうによき芋頭いもがしらを選びて、ことに多く食ひて、萬の病をいやしけり。人に食はすることなし。たゞ一人のみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にざまに、錢二百貫と坊ひとつを讓りたりけるを、坊を百貫に賣りて、かれこれ三萬ひき芋頭いもがしらあしと定めて、京なる人に預けおきて、十貫づゝ取りよせて、芋頭いもがしらを乏しからずめしけるほどに、また、他用ことように用ふる事なくて、そのあし皆になりにけり。「三百貫のものを貧しき身にまうけて、かく計らひける、誠にあり難き道心者だうしんじゃなり。」とぞ人申しける。

 この僧都、ある法師を見て、「しろうるり」といふ名をつけたりけり。「とは、何ものぞ」と、人の問ひければ、「さる者を我も知らず。もしあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞいひける。

 この僧都、みめよく、力強く、大食たいしょくにて、能書・學匠・辯説、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を輕く思ひたる曲者にて、よろづ自由にして、大かた人に隨ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがて獨り打ち食ひて、歸りたければ、ひとりついたちて行きけり。とき非時ひじも、人に等しく定めて食はず、我が食ひたき時、夜中にも曉にも食ひて、ねぶたければ、晝もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人のいふこと聽き入れず。目覺めぬれば、幾夜もねず。心を澄ましうそぶきありきなど、世の常ならぬさまなれども、人にいとはれず、よろづ許されけり。徳のいたれりけるにや。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『真乗院しんじょういん盛親僧都じょうしんそうづという、優れた僧官がいた。芋頭いもがしらと言うものを好んで多く食べた。
 説教の場でも、大きな鉢にうず高く盛り、膝元に置いて、食べながら書物を読んでいた。患っている時も、七日、十四日の間、療養と言って閉じ籠って、旨そうな芋頭いもがしらを選んで、いつもよりも沢山食べ、どんな病気でも治してしまう。人に食べさせることもなく、一人で食べてしまう。

 極めて貧しかったのだが、師匠が200貫のお金(現在の900万円~1200万円)と、建物を遺したが、建物は100貫(450万円から600万円)で売ってしまい、合わせて3万疋(1貫=100疋)(おおよそ1500万円)のお金を芋頭いもがしらを買うお金と決めた。

 そのお金を京都にいる人に預けて、10貫づつ持ってこさせては、芋頭いもがしらを足らない事がないほど食べて、また他にそのお金を使う事もなく、使い果たした。
 「300貫ものお金を貧しい身に賜りながら、このように使い果たすとは、全く珍しい仏道を修めようとする心を持った人である」と人は言う。

 この僧都そうづは、ある法師を見て「しろうるり」と言うあだ名をつけた。「それは、どういう意味か」と人が聞くと、「誰も知らない、もし例えるとしたらこの僧の顔に似ている」と言った。

 この僧都そうづは、容貌も良く、力強く、大食いで、達筆・学識・弁舌に優れ、
宗派の信望ある高僧なので、寺内でも重用されたが、世間を軽く見る変人で、自由気ままに振る舞い、人に従うと言う事が無かった。

 勤めについてその場で食事がでても、皆のお膳が揃うまで待たずに食べてしまい、勝手に帰ってしまう。

 朝夕の食事も人と一緒に取らず、夜中でも夜明けでも構わずに食べ、眠くなれば昼でも部屋に籠って、どんな大事な事が起きても、人の言う事を聞き入れず、眠くなければ何日も寝ずに、心を静かに口笛を吹いて歩くなど、常人とは違う人であったが、人には嫌われず全て許されていた。

 徳が高いゆえなのだろうか。』
【参照】
真乗院しんじょういん:仁和寺系列の院家いんげ、南禅寺境内にある真乗院しんじょういんとは、年代(1450年創建)が違うし、宗派も、ここで言われている真乗院しんじょういんの場合は真言宗であるが、南禅寺の真乗院しんじょういんは臨済宗なので、同名の寺があったと思われます。

院家いんげ:(1) 門跡寺の別院にいて、本寺の諸務を補佐する僧。出家前の門跡に仕えた貴族などが出家してつとめる。
(2) 平安末期頃、本寺内の院において有名貴族の子弟が出家して名乗った称。(1)に起源するが、自ら本寺の座主などについた。
芋頭いもがしら:(1) サトイモの親芋。

(2)〔形が(1)に似るところから〕 茶道で、茶入れや水指の形の一種。

(出典:大辞林第三版 三省堂.)
僧都そうづ:「僧綱(そうがう)」の一つ。僧正(そうじよう)につぐ僧官。最初は、大僧都・少僧都各一名であったが、のちには、大僧都・権(ごん)大僧都・少僧都・権少僧都の四階級となった。
(出典:学研全訳古語辞典 学研.)

 

 

『芋』

 芋と言うと、私はサツマイモに救われていますが、この段の芋は、芋頭いもがしらと言うサトイモの親芋だそうですが、サトイモは小芋しか食べた事がありませんが、イカと煮て食べるくらいで、あまり食べないので、よく分かりません。

 おやつのように食べているので、どういう調理をしているのでしょう。どうもサトイモと言うと、ぬめっとした感じしか分かりませんが、ちょっとぬめっとした食べ物は、全般的に苦手です。出されると食べますが、オクラなんかは、遠慮したい食べ物です。

 さて、本題に移りましょう。ここでも、仁和寺に対する、卜部兼好法師の釈然としない悶々とした思いが、伝わってくるのではないでしょうか。

 穿った解釈かも知れませんが、ここに登場する盛親僧都じょうしんそうづと言う人が、果たして徳があると言えるのか、と言う非難に聞こえます。

 この文章、簡単に要約すると、芋頭いもがしら好きの、ケチで利己主義の僧侶が、わがまま放題で、真乗院しんじょういんで君臨していて、誰も相手にしない」と言う事だと思っています。

 まず、芋頭いもがしら好きの」と言うのは、頷いてもらえると思います。

 では、「ケチで利己主義」と言うのはどうでしょう。師匠から相続した財産を全てお金に換え、自分の為にしか使わない、そして全て使い果たした。これを表現しました。

 「わがまま放題」は、礼儀作法を守る事のできない、変わり者だと思います。やはり、みんなで食事をする時は、みんなが揃って食事を頂くのは、今も昔も同じだと思いました。

 なぜ、「君臨」かと言いますと、要職にいながら、大事な時に役割も果たさず、それを周りの人が諫言もできないのですから、権力を笠に着ているとしか思えません。誰もが許しているのではなく、言えない状態か、もしくは、言うのもバカバカしいと思っているのではないでしょうか。

 その他の、芋頭いもがしらでどんな病気も治してしまうとか、容貌も良く、力強く、大食いで、達筆・学識・弁舌に優れ、などと言うのは、お世辞にしか聞こえません。

 事実だとしても、僧都そうづであれば、達筆・学識・弁舌に優れているのは、当たり前であり、前の部分、容貌も良く、力強く、大食いで、と言うのが誉め言葉とも思えません。

 また、たとえそうだとしても、礼儀作法も心得ないで、組織の要職が務まるのでしょうか。

 「徳のいたれりけるにや。」と兼好さんは言っていますが、これは嫌味にしか取れません。

 私も、このような人を良く知っています。権力を笠に、やりたい放題、礼儀も自分の解釈で、とても、人の上に立つべきでもない人が、現実にはいます。今流行の言葉で言うと、「サイコパス」かも分かりません。本人は全く自覚していないのですから。

 笑ってしまうほど、この僧都そうづに似ています。芋頭いもがしら好きではありませんし、どんな病気も治してしまうほどの、妖術を持っている分けでもありません。

 が、皆で食事をしようとしても、自分勝手に始めて、終われば、さっさと席を外してしまいます。大事な時にはどこかに行ってしまいますし、人の不幸も意に介する事はありません。

 ただ、残念ながら、人生そのまま終わる人もいるのです。ですから、今よりも権力に振り回された時代ですから、現世に希望を持てず、極楽往生を願ったのかも知れません。今も権力に振り回されている状況は、変わりないかも知れませんが・・・。

 この段の中で、全く理解出来なかった所は、「しろうるり」でした。勝手に人の分からない、意味不明のあだ名を付けて悦に入っている姿が目に見えるようです。

 もう一つ理解出来ない事は、この僧都そうづに極貧の時代があったと言う事です。
 その時代の状況はいま一つ解りませんが、仁和寺系列の院家いんげとありますから、辞書を鵜呑みにすると、この僧都そうづは、貴族だった可能性が高いのです。

 確かに貴族が貧困に見舞われた時代もあったと思うのですが、鎌倉時代の末期もそうだったのでしょうか。私の知識の中では解決しない様子です。

 この段は、特に私のわがままな見方で、読み解きました。ですから、他の解釈とは、違うとしておきましょう。

 私はこのような人は、非常識としか思えません。秀でた人とは思いたくもありません。

 確かに、僧侶の中には、変人と言われるような生き方をした人は、歴史上沢山います。しかし、そんな人は、組織の中にはいなかったように思います。

 この段以外に、仁和寺の僧侶について、色々書かれていますが、仁和寺は真言宗、卜部兼好法師は比叡山延暦寺で修行されたと言われています。だとすれば、天台宗であるはずですが、これもあいまいな情報です。

 仮に、兼好法師が天台宗であるとしたら、小さな宗教戦争のような気がします。戦争とまでは行かなくても、宗教間によくある争いの一端が、この徒然草に現れているようにも思ってしまいます。