文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【79】

 今日の文字は『ほう』です。知らせると言う意味でこの文字を選びました。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第七十八段』を読んで見て、感じた文字です。

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★ 『WBSS、井上は「何という怪物だ!!!」 公式ツイッターも衝撃/BOX(株式会社 産経デジタル 2018/10/07 22:55)』プロボクシング・WBA世界バンタム級タイトルマッチ(7日、横浜アリーナ)王者・井上尚弥(25)が、1回1分10秒KO勝ちで初防衛と言うニュースを見ました。

 強い人が次から次へと出てきます。ボクシング協会も底辺からしっかりしないと、こういう選手が華々しい間は、良いのですが、選手生活を終えた後の事を考えると、苦慮してしまいます。問題山積みのボクシング協会に期待する所です。

★ふるさと納税の在り方で、先日元大阪市長橋本徹さんが、面白いアイデアをテレビで発言していました。私も納得してしまいました。

 それは、ふるさと納税の名前を改称して消費拡大税制にすれば良いという意見です。ただ、行政が購入するルールを明確にしないと、購入先が限定されていて不公平になると言う事も付け加えていました。

 さすがに人気のある人だと感心しました。自分の意見にも行き届いていて、熟慮の後を感じました。

 貴乃花親方の件は、単なるファンの目に止まった感じがしましたが、これは、この年代の人から発せられると、コメンテーターも含めて同じような目線です。これはちょっとガッカリしました。

 これだけ、賢い人と思いますので、もう少し客観的な目線があるかと、期待していただけに、残念でした。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第七十八段 〔原文〕

 今樣の事どもの珍しきを、いひ廣め、もてなすこそ、又うけられね。世にことりたるまで知らぬ人は、心にくし。今更の人などのある時、こゝもとに言ひつけたる言種ことぐさ、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見あはせ、笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず、よからぬ人の、必ずあることなり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『今流行の話を話題にして人に応対するのは、良い事とは思えない。世の中に浸透するまで知らない人は、心憎い。
 新しく仲間に入った人の前で、自分たちだけにしか通じない話や言葉を使い、省略した言葉で目くばせをして笑うなど、内容が通じない人にとっては、意味が解らない思いをさせるなどは、世の中の事が分からない、悪意の人が必ずやることである。 』

 

 

『報』

 冒頭の言葉は、現在の情報化時代では通じない言葉です。世の中に浸透するまでに情報を知っていないと、すぐに次の情報が流れます。

 情報化社会と言うのは、何も、現在だけの事では無く、戦国時代でも、情報を制した方が、また情報を操る事が出来た方が有利に戦えた事は、歴史が物語っています。

 今国際社会では、この情報に取り残されると、国の存在も危うくなる時代です。奥ゆかしいなどとは言っていられないのです。

 兼好法師は、鴨長明が遺した、方丈記の冒頭『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。』のように、流行はすぐに廃れて、又新しい流行が生まれる。

 そんなことに心を惑わされる必要はない。しっかり世の中に浸透してからその話を知る方が賢い方法であると、言いたかったのかも知れません。

〔真贋〕

 これも、一理ある言葉です。流行の物事に追随していると、本物を見過ごしてしまいます。ですから、真贋を見分ける目が必要になってきます。この目は、眼の場合もありますし、知識の場合もあります。

 もっと言えば、般若心経に言われる『無眼耳鼻舌身意むげんにびぜっしんい』では、そんなものは無いと言われている眼耳鼻舌身意げんにびぜっしんいと言われている人間に備わっている機能をフル稼働して真贋を見分けなければなりません。

 ですから、冒頭の部分は、流行には流されないで、地に着いた考えを持つべきだ、と言うような捉え方も出来ると思います。

 この考え方はこれまでの歴史を顧みると、その通りであると腑に落ちます。しかし、現在の情報化時代に通用するかと言うと、俄かには信じ固い思想です。

 だとすれば、現在は、情報を取り入れる事は真っ先に行い、その情報を生かすか、または棄て去るかを、吟味する事が求められていると思います。一概に、世の中に浸透するまで待っていては、すでに役に立たない情報になっているかも知れません。

〔隠語〕

 次に書かれてある事は、現在でも見られる光景です。場合によっては『いじめ』にも通じる事だと思います。

 私は、組織はどんな組織でも、ある意味閉鎖的な社会だと思っています。ですから、その組織だけで通用する言葉も使います。その言葉の中には、専門用語もありますし、他の組織との差別化を図るために使う言葉もあります。

 組織の中だけで使う言葉には、外には知られたくない暗号のような言葉もあります。例えばデパート等では、雨が降った時など、店内放送で店員にそれとなく伝えるBGMが用意されていると聞いています。

 また、店員が食事に行く時、トイレに行く時も、隠語を使います。これも、そのデパートや飲食店独自の物が決められています。

 このような言葉の場合は、お客様に対して気を使う言葉ですから、昔から定着している習慣のようなものです。

〔閉鎖的〕

 このような組織の中に新しく入った人は、言葉だけではなく古くからいる人に馴染むのには、少し時間がかかります。まして、この段にあるような、意地悪な人がいる場合は、『いじめ』になる事もあります。

 私は、10回も職を変えていますので、何度か『いじめ』のような仕打ちを受けた事があります。

 現在でも人が寄る所には、このような人を容易に受け入れられない人達も居ると思います。

 「世なれず、よからぬ人」と原文にありますが、私は遠慮して「世の中の事が分からない、悪意の人」と訳しましたが、悪く言うと、「アホで意地悪な人」の事です。

 なぜ、アホかと言いますと、僅か一週間ほど経つと、自然に覚えてしまえるような、専門用語を、さも自分は知っている事で賢いと思っていて、人を小馬鹿にする人だからです。

 そう言う人は、早晩その意地悪をした人の下で働く事になると思います。しかし、こういう人の中には、小賢しい人がいて、ごますりも上手で、いじめた相手が出世すると、手の平を返したように、すり寄ってきます。やっぱり、「アホ」ですね。

 そしてこんな人に限って、人を裏切る事も平気です。まあ、したたかと言うのですかね。こんな生き方はしたくはありません。

〔いじめ〕

 最近のいじめ事情については、詳しくありませんが、何だか陰湿な気がします。そして、仲間外れにする事がいじめだと思っているような気もします。時には、インターネットを使って「いじめの主」が匿名の場合もあるようです。

 何も今始まった事では無く、昔から『村八分』と言う言葉もあるように、仲間外れにしたいのが人間の習性かも知れません。
 ただ、『村八分』の場合は、現在で言えば刑罰と捉えられますから、一概に一緒には出来ないでしょう。

 最初に「いじめ」に対抗する方法を考えて見ました。

 まず、自分が強くなる事に尽きます。問題はどのように強くなるかが問題です。

 第一に肉体的に強くならなければなりません。そして理論武装することです。一時オーム真理教に「ああいえば、上祐じょうゆうと流行語にもなった人がいましたが、あそこまで屁理屈を捏ねる必要はないにしても、言葉には言葉で対抗する必要があります。

 そして、暴力には暴力で向かえば良いと思っています。ただし、 言葉にしても暴力にしても、絶対的な覚悟が必要である事を肝に命じておかなければ、なりません。

 なぜかと言うと、どちらも世間には受け入れてもらえない方法ですから。

 しかし、よく「毅然とした態度」と言いますが、態度だけ毅然としていても、やられっぱなしでは、いじめの対象としては格好な標的になるだけです。

 そこで、『覚悟』するのです。言葉のいじめに対しては、正論で返します。決して、相手と同じ土俵、すなわち、いじめをいじめで返すような事はしないことです。これでは売り言葉に買い言葉になってしまい、収拾がつきません。

 もう一つ「いじわる」な事をされた場合も同様です。絶対に公表することです。仕返しを絶対にしない事です。したくなる気持ちは分かりますが、復習は復習しか助長しません。

 また、仲間外れにされた場合は、大いに仲間外れを楽しみましょう。何も一生そんな狭い世界で暮らす分けではありません。「どこ吹く風」とやり過ごす事も処世術と言えます。

 意外と長い人生の中で強い自分を作ってくれるかも知れません。もちろん、これで、潰れてしまいそうなら、場所を変えた方が良いでしょう。しかし、いつかはそんな環境にも耐えられるほど、精神的に強くなった方が自分の為です。

 人間万事塞翁が馬じんかんばんじさいおうがうまと言いますから、振り返ってみると、自分を作る基になっているかも知れません。

 最後に暴力です。誤解を恐れずに書きますが、暴力には暴力で対抗する意思を示す事です。場合によっては相手を傷つけてしまう事もあるかも知れません。また、自分が傷つけられるかも知れません。

 ただこの方法は、 「覚悟」がいる事と、程度を弁える冷静さが必要です。

 「覚悟」とは、物騒な話ですが、「死ぬ覚悟」をしなければなりません。しかし、相手を傷つけたり殺してしまうと、社会のルールに従って、裁かれる事になります。ですから『覚悟』が必要です。ようするに、今の人生を捨てる『覚悟』です。

 そんな相手と刺し違えて、何か自分の人生に得がありますか。

 澤部滋先生(空手界の重鎮、私が勝手に尊敬する人)が、まだ私が20代の頃に、言われた言葉があります。『その相手は、自分と刺し違えても価値のある人間か』と言われた事が今でも忘れられません。

 この場合は、発端はいじめではありませんが、堪忍袋の緒が切れる寸前で、思いとどまらせてくれた言葉でした。

 最近は、言葉が暴力を凌駕しているような気がします。

 時代錯誤と言われると思いますが、先生から受ける、執拗な言葉による説諭より、一発のビンタの方が私は受け入れる事ができました。

 ねちねちといつまでも言われるより、ストレスは起きないと、今でも思っています。