文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【18】

 今日の一文字は『山』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十七段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 山籠もり 修行

 ボクシング協会も大詰めを迎えて、午後には結果が出るでしょう。最近は組織上の問題がクローズアップされていますが、これも時代の変わり目なのかも分かりません。

 価値観の相違は、いつの時代にでもありました。東映の任侠路線が衰退し、広域暴力団も一時の勢力を内部崩壊から無くしています。

 世間が任侠に憧れた時代は、現実にあったのです。そして、今も少数派かも知れませんが、その芽があるのも事実です。

 しかし、任侠が暴力団に変わって行った時代と同じで、組織の形態も変わろうとしているのかも、知れません。

 リーダーシップの在り方も、変わっていくのでしょうね。上に立つ人は、アンテナを高くして、時代の変わりをいち早く察知して、方向転換をしないと、裸の王様になりかねません。 
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第十七段 〔原文〕

山寺にかきこもりて、仏につかうまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『山寺に籠って、仏にお仕えすることこそ、退屈しないし、心が濁っていても清々しい気持ちになるようだ。』

 

『山籠もり』

 籠ると言うと、世間との関りを断つことですから、当然ストレスの解消になると思います。しかし、兼好は法師ですから、世間との関りを断っても、仏との関りを逆に深くする事になるのでしょう。

 ですから、仏に仕える事で、退屈な気持ちを吹き飛ばしたのでしょう。

 しかし、これは籠ると言うのでしょうか。

 籠ると言う場合、中に籠って出てこない、逃避と言う行為と、何かに集中するために、世間の雑事を遮断する場合があると思います。

 やはり、兼好は仏に仕える事に集中するための方法だったのだと思います。

 前に書きましたが、私も高野山で、山籠もりの真似事をした経験があります。その頃は高校生ですから、雑事と言っても、遊ぶ事と勉強ぐらいしかありません。勉強を雑事と言うのは、「それは違うだろう」と言われてしまいますが、私にとって、その頃は、空手の練習がしゅの生活でした。ですから、遊びも勉強も雑事だったと思います。

 この一ヵ月の経験は、その後の私の人生に大きな体験になりました。その環境を与えてくれた両親には感謝しています。しかし、両親の意図とは全く違った利用の仕方をしました。

 両親は、遊びほうけているバカ息子を山の中に閉じ込めて、勉強させようとの企みであったと思います。

 『山籠もり』にせよ、『出家』にせよ、その頃は、何とも思わなかったのですが、その意味を考えるようになってからは、矛盾を感じるようになりました。

 特に家庭を持つようになってからは、家族を養うと言う責任が生じます。自分勝手に『山籠もり』や『出家』の出来ない環境になります。

 一方、高校生の頃に『山籠もり』が出来たのも、その環境を両親から与えられたもので、自分からその環境を作り出したものではありません。

 高野山で朝早くから仏さまに仕えているお坊さんも、自分ひとりでその環境を作っていると思うと、それは違うと思います。

 まして、仏様のお陰と思う事も間違いです。宗教を信じる人は、神様であれ、仏様であれ、その信じる対象のお陰だと言っているのをよく聞きますが、私は、『お陰様』と言う、直接自分に関係する人のお陰も含めて、世の中の見知らぬ人から、回りまわって、恩恵を受けているのだと思います。

 もし、『山籠もり』する機会が出来たとしても、この『お陰様』と言う気持ちを忘れないようにしなければ、ただただ自己中心的な行動になってしまいます。

 

『修行』

 『山籠もり』と切っても切れないのが『修行』です。

 昔『十牛図』と言うものが書いた本を手にした事があります。これは、禅の修行の過程が解き明かされた文献です。

 これは有名な絵と文章ですから、ご存知の方も多いと思いますが、簡単に説明しますと、

  1. 尋牛じんぎゅう:今から本来の自分(牛)を探す
  2. 見跡けんぜき:牛の足跡を見つける
  3. 見牛けんぎゅう:牛と対面する
  4. 得牛とくぎゅう:牛を捕まえる
  5. 牧牛ぼくぎゅ:牛を連れて行く
  6. 騎牛帰家きぎゅうきか:牛に乗って悟りを得て牛と一体になる
  7. 忘牛存人ぼうぎゅうぞんじん:牛の存在も忘れる
  8. 人牛倶忘じんぎゅうぐぼう:空の世界にいると思う
  9. 返本還源へんぽんかんげん:空の世界から自然世界を見る
  10. 入★垂手にってんすいしゅ:日常生活に戻る

★「てん」の文字は環境依存の文字でも少し違いますので、書いて見ました。

 上に挙げた1.から10.の道程を経て、悟りに至るというものです。

 この『十牛図』については、また機会があれば紹介しようと思いますが、ここでは、『修行』にスポットを当てて、私の感じた事を書いて見ます。

 私は、最後の10.にこそ修行の意味があると思っています。

 入★垂手にってんすいしゅ』は、市井しせいに出て、修行の成果を、生活に役立ててこその悟りであると言っています。

 であれば、『山籠もり』も『出家』も『修行』も、人間にとって意味深いものと思っています。

 立派な神社仏閣で、組織上の頂点に立つよりも、沢庵禅師の生き方を、立派だと思っています。

 参考文献には、これを瞑想法として記載されていますが、私は単に瞑想するだけではなく、悟りは実践してこその『悟り』であると思っています。

【参考資料】太田雅男・大森崇・小向正司・高木俊雄(1992) 『禅の本』株式会社学習研究社.