お習字から書道へ プロローグ

  もう、遥昔、と言っても大昔ではなく、60年程前の事です。小学校の先生が、私の家にやってきました。

 両親と話をしているのを聞いていると、どうも私の事のようです。
 「もう少し、人の読める字を書くように言ってください。答案用紙が読めません。点数の付けようがない。」そんな話の内容です。

 耳にした言葉は、「みみずの這ったような字」でした。金釘流と言われる下手な字よりも、もうすこしランクが低いのかも知れません。先生が読むことができないのですから。

 今でも急いで書くと、後で自分で読むのも苦労します。それでも、大学生の頃、一念発起して、大学ノートを買ってきて、字の練習を始めました。

 その時の手本になった本は、今でも持っています。装丁が布で、題名はもう半分消えかけています。鷹見芝香著たかみしこうとなっていて、「ぺん習字」基礎と応用、主婦の友社と書いてあります。

 その本の7ページ目に「ひらがな(基本)」と書いてあり、「あいうえお」から始まり、「を」で終わっています。今見ますと、「ん」が見当たりません。ん~、理由は分かりません。

 一口メモ  

 ひらがなの50音表と言うのがありますが、これは母音を縦、あいうえお、に子音「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ」を横に並べたもので、47文字あります。そして、「ゐ・ゑ・を」を加えて50音になりますが、「ん」は子音として独立した文字なので50音表には上げないそうです。
 これも、歴史的には色々な変遷をしているようです。

 

 私が考えたのは、漢字は一杯あるけど、ひらがなは50文字程度なので、何とか覚えられるかも・・、と言う安易な発想です。
 文章を書く時、一行で漢字とひらがなを比べるとひらがなが多いと言うのも、理由の一つです。

 大学ノート三冊ほど書いていると、何とか人が読める字になって来ました。

 私の姉は、書道の天才だと思っています。彼女が小学校1年生の時に書いた字に、未だに到達したとは思えません。大学生の頃に、書道では名の通った展覧会、毎日書道展の無鑑査になったくらいですから。財力があれば、名の通った書家になっていたと思います。
 私は、勉強もできる姉といつも比べられ、すこしは勉強したら、などと言われていましたが、一向にピンとこない性格だったのでしょう。

 今私は、年金生活者ですから、仕事をしていません。だからといって、一日中寝てばっかりいてもつまらないですし、空手はすでに生活の一部ですから、それほど刺激のある物ではありません。

 一昨年の終わりごろから、お習字でも始めようかと、それこそ我流で始めてみました。1ヵ月も経たない内に、これでは続かないかも知れないと思い、人の評価を受けて見るのも良いか、と思い、東京書道教育会と言う所の通信教育を受ける事にしました。七十の手習いです。

 お習字を始めたキッカケの一つは、大阪の空手界では、字が上手と言う評価をもらい、20代の頃から東日本、西日本、全国大会と賞状を書く役割を担ってきました。また、致道館でも免状の一部は私が担当していました。
 しかし、自分ではまったく字が上手と思った事はありません。ですから、今回、通信教育で、専門家の評価はどんなものだろうと、始めたのです。
 
 通信教育は、楽天市場から申し込みました。ポイントが付くからです。平成29年1月16日でした。

 初級が12過程、中級が12過程、師範上級講座に進みます。中級過程は昨年11月に終了し、師範上級講座に進んでいます。概ね10ヵ月間かかりました。

 なんとか、平成30年4月1日付けの普通科師範の免状が届きましたが、今は正師範を目指して頑張っています。

 昔から、文武両道と言われますが、最近は、スポーツが出来て、勉強もできる人を指しますが、私の理解では、すこしニュアンスが違います。宮本武蔵のように武術にも芸術にも、そして五輪書などを著作することのできる才能が豊かな人の事を言うものだと思っています。

 私は、武道をする人は、必ず哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動のいずれかを学ぶ必要があると思っています。できれば、哲学か芸術の方が私の好みには合っています。でなければ、ただ争いごとを好み、優劣を競うだけの、野蛮な道になりかねないと思うからです。

 あくまでも、自分の考えですが、だからといって、空手の型を芸術化するのはどうかと思います。空手の型は舞踊ではありません。舞踊は芸術だと思いますが、空手の型はあくまでも、空手道の手段であるべきと思っています。

 とは言うものの、残念ながら私は、芸術については、今のところ皆目かいもく分かりません。ですから『お習字』と言っています。空手でもそうですが、まず上手くならないといけません。そのためには、学ぶことから入らないといけないと思います。語弊があるので言い添えますが、別に上手くなる必要はないのですが、上手くなろうとして学ぶ姿勢が大切だと思うのです。そうすると、大概の人は知らない内に、上手くなっているものです。

 学ぶと言うと、真似る事が上達の糸口であることは、空手でも同じです。書道の世界では、「臨書」と言う稽古方法が確立されています。空手で言えば、「型を打つ」事になるのでしょう。

 要するに、手本となるものに如何に近づけるかが目標です。その為に必要な事は、見る目を養うという事だと思います。
 
 空手の経験では、正確に見ることができれば、八割がた上手くなっているのではないでしょうか。違いが分からないと、上手くなり様がないと思います。
 ただ見る事に拘って、評論家になってはなりません。あくまでも、空手の場合も書の世界でも実践者であるべきと思っています。

 今回お習字を始めて気付いた事は、如何に臨書になる手本の隅々まで見ることが出来るかがカギだと思いました。
 例えば、楷書であれば、形はもちろんの事、一点一画の形を忠実に再現する事が求められます。
 これが意外と難しいと感じました。空手では、なぜ、そこのところが見えないのだろうと、不思議に思っていましたが、お習字になると、見えません。添削されて帰って来ると、見逃していた事を指摘されています。これは上手になりますよ。的確な指示で添削してくれます。さすが専門家。

 まだまだ、書道と言うには程遠い段階ですが、一応普通科師範と言う事で、しばらくの間、今の私程度の文字が書ける方法を、順を追って書いて行きたいと思います。同時に私も少しづつ書道が分かるようになりたいと思っています。