文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【94】

 今日の文字は『いのち』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第九十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 

★『古賀茂明「70歳まで働くと年金は失業保険化する? 安倍総理は真実を語れ」』
(AERAdot.2018/10/22 07:00)

「前略——- そういう社会が本当に幸福な社会なのだろうか?と考えて、私は、バートランド・ラッセルの「怠惰への讃歌」を思い出した。

 私は、元々怠惰なのか、そもそも、何のために働くのかときかれれば、それは、楽な暮らしをするためだと答える。「働くことは社会のためだ」とか、「働くことに生きがいを感じるはずだ」と言われてもどうもしっくり来ない。こう言うと、「働く喜びがわからないなんてかわいそうだね」「働くことは、労働ではなくて、創造だよ」とか「自己実現だ」「社会貢献だ」「人間としての義務だ」とか、「単なる道楽と同じで楽しいもんだよ」などと言ってくる恵まれた? 人もいそうだ。

 しかし、私は、お金をもらって働くのではない活動の方に喜びを感じ、のんびり老後を過ごしたいと思う人たちがたくさんいる社会がおかしな社会だとは思わない。——後略」

 元通産官僚でフォーラム4代表。古賀茂明政策ラボ代表。そして、テレビでもお馴染みのコメンテーターが、書いている、上記のような記事を読みました。

 話の内容は、このままでは年金制度が破綻すると言う事ですが。この内容にも頷けますが、私が共感したのは、「私は、お金をもらって働くのではない活動の方に喜びを感じ、のんびり老後を過ごしたいと思う人たちがたくさんいる社会がおかしな社会だとは思わない。」という部分です。

 この古賀茂明さんは、官僚を止めた当時のコメントは、好感をもっていましたが、最近のコメントは、私には整合性の取れない矛盾したものを感じていました。

 芸能人にしても、テレビに出て話をするのは、仕事だとは思いますが、局の意向に合わせてコメントしていると、折角長い時間かけて蓄積してきた、人気を一瞬にして無くす事になると思います。考えた方が良い、と言っても生活懸かっていますからね。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第九十三段 〔原文〕

 「牛を賣る者あり。買ふ人、明日その價をやりて牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、賣らんとする人に損あり」と語る人あり。

 これを聞きて、かたへなる者の曰く、「牛の主、まことに損ありといへども、又大なる利あり。その故は、生(しゃう)あるもの、死の近き事を知らざること、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、計らざるに主は存せり。一日の命、萬金よりも重し。牛の價、鵝毛がまうよりも輕し。萬金を得て一錢を失はん人、損ありといふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は牛の主に限るべからず」と言ふ。

 また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に樂しまざらんや。愚かなる人、この樂しみを忘れて、いたづがはしく外の樂しみを求め、このたからを忘れて、危く他の財を貪るには、志、滿つる事なし。生ける間生を樂しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を樂しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死しゃうじの相にあづからずといはば、實の理を得たりといふべし。」といふに、人、いよいよ嘲る。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『「牛を売る人がいる。買う人が明日代金を払って引き取る予定。しかしその夜に牛が死んでしまった。この場合は、買う人に運がある。売る人にツキが無かった。」と語る人がいた。

 これを聞いて、そばにいる人が「牛の飼い主は本当に損をしたが、大きな得もしている。  その理由は、生きているものは命の終わりが近い事は分からない。この牛がまさしくその通りである。人も同じことである。
 はからずも牛は死んで、飼い主は生きている。一日の命は多額の金銭より重い。逆に牛の命はガチョウの羽のように軽い。万金を得て、一銭を失った人を損があったと言うべきではない。」と言うと、皆が嘲って「その理屈は牛の飼い主だけに当てはまる分けではない。」と言った。

 また、さっきの人が「だから人は、死を憎くむならば、生きる事を愛さないといけない。生きている事の喜びを日々感じつつ暮らす。愚かな人はこの気持ちを忘れて無我夢中で他の喜びを求め、この宝を忘れ、確実性の無い他の財を貪るので、思いが満たされる事もない。
 生きている時に生きる事を楽しまず、死ぬ間際に死を恐れるのは、人の生き方ではない。
 人がみんな生きる事を楽しまないのは、死を恐れていないからである。いや、死が間近に迫っている事を忘れているからである。
 もし、また生死を越えているのであれば、真実の理を得たと言うべきである」と言うと、人はますます嘲る。』

 

 

『命』

 一見、このそばにいる人の言う事は、もっともだと思えますが、これを聞いていた人が嘲り笑う理由も分からないではありません。

 一見と言ったのは、兼好法師の大前提と小前提に飛躍があり、とても結論との関係を見いだせない、文章の進め方と同じように感じるからです。

 この話も、兼好法師の作り話かも知れません。

 では、 なぜ大前提と小前提に飛躍が見られると思うのかを、書いて見ます。あくまでも、私見として。

 まず、大前提として、命は財宝よりも重い、としています。そして牛の命はガチョウの羽根のように軽いと言っています。これは、本当に牛の命が軽いと言うのではなく、比喩として捉えておきましょう。

 だからと言って、牛が死んだ事と、飼い主が生きている事を、同じように扱えるのでしょうか。飼い主が死ぬより牛が死んだから、得をしたと言うのは、比べる事はできない事です。

 例えば、牛を積んで運んでいる時に、自動車事故に遭遇し、飼い主は九死に一生を得たが、残念ながら積んでいた牛は無くなったのであれば、この話は、尤もだと聞く事ができます。

 この自動車事故を小前提とするならば、結果として、飼い主は、牛を失って損をしたけれど、命が助かって得をしたと言えるでしょう。

 牛をペットとして考えると、少し考えが違うかも知れませんが、家畜であれば、人間の命と比べて、遥に価値は低いと思うのは納得できます。

 しかも、皆が嘲り笑いながら、『その理は牛の主に限るべからず』と原文に書かれてありますが、まったく反論にもなっていない気がします。

 皆は、価値の低い物を失って、価値の高い物が残ったから得をしたと言うのは、他にもあると、言いたいのだとしておきましょう。

 そして、『されば』と、反論にもなっていない事をうけて、 だからダメなんだと言いたいのでしょう。

 『されば』と言うのではあれば、この皆が嘲り笑った事について、反論しなければ、話しの辻褄が合いません。

 にも拘らず、話しは、 とんでもない飛躍をします。

 人は死を憎むならば、生を愛すべし。とどこから湧いて出て来た話しか分かりませんが、だれも、死を憎んでいないと思いますし、生きる事を楽しんでいない事もないと思います。誰がそんな事を言ったのでしょう。

 『その理は牛の主に限るべからず』からは、そんな意味は考えられません。

 そして、自分の言葉に酔うように、『愚かなる人、この樂しみを忘れて、いたづがはしく外の樂しみを求め、このたからを忘れて、危く他の財を貪るには、志、滿つる事なし。生ける間生を樂しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を樂しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。』と、滔々とうとうと自論を展開します。

 生きる事の楽しみを忘れて、財宝を貪るのに一生懸命の人と、牛が死んだ事とどういう関係があって、言うのでしょうか。

 これでは、話し終わったとたんに、皆に、「で、一体何が言いたいねん!?」と言われても仕方ないでしょう。嘲り笑うかどうかは分かりませんが。

 私は「三段論法」を使ってこの文章を解読しましたが、「起承転結」と言う、少し遊びのある文章構成もあります。

 江戸時代の学者で、頼山陽(歴史学者など)と言う人が例に挙げている文章があります。

 ⇒ 大阪本町 糸屋の娘
 ⇒ 姉は十六 妹が十四
 ⇒ 諸国大名は 弓矢で殺す
 ⇒ 糸屋の娘は 目で殺す

起句、承句、転句、結句と言う場合もあります。

 もともとは、漢詩の、近代詩の代表的な詩型の一つ、絶句の構成の仕方ですが、私などは、文章を構成する場合にはこの方法で書くようにしています。

 ただし、このブログは、全く構成は考えず、思った事から書き進めています。いわゆる、徒然なるままに、書いていると言う事です。

 起承転結の場合は、話の展開の飛躍を試みます。しかし、あくまでもクローズアップするための脇役の役目です。

 滔々とうとうと話しを展開している人が最後に『もしまた、生死しゃうじの相にあづからずといはば、實の理を得たりといふべし。』と、悟りを持ち出したのですから、私でも苦笑してしまうかも知れません。