文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【81】

 今日の文字は『えん』です。「とおい」と言う意味で選びました。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第八十段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
★ 大相撲の第54代横綱で、輪島大士(本名・輪島博)さんが8日に逝去されたとニュースで知りました。

 彼は、同じ日本大学で学部は違いますが、同じ学年です。あった事はありませんが、何だか赤の他人のような気がしないのは、同じ時代に同じ大学に在籍していたせいでしょうか。

★日刊サイゾー(2018/10/09 16:00)『岡田准一の映画『散り椿』大コケ! 結婚でファン離れ、ジャニーズ内“映画俳優序列”も急降下!?』と言う見出しを見ました。
 
 テレビでこの映画を紹介する場面でしか見ていませんが、岡田准一さんの刀捌きは、一流だと思い見ていました。

 一朝一夕で出来るものではないと思いますが、この記事を最後まで読んで、『とはいえ、業界内での俳優・岡田の評価は高く』と書いてありましたが、興行収入が全ての世界ですから、仕方がないのかも知れません。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第八十段 〔原文〕

 人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道をたて、えびすは弓ひく術知らず、佛法知りたる氣色きそくし、連歌し、管絃を嗜みあへり。されど、おろかなる己が道より、なほ人に思ひあなづられぬべし。

 法師のみにもあらず、上達部かんだちめ殿上人てんじょうびと、上ざままで おしなべて、武を好む人多かり。百たび戰ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は運に乘じてあたを砕く時、勇者にあらずといふ人なし。つわものき、矢きわまりて、遂に敵に降らず、死を安くして後、はじめて名を顯はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獸に近き振舞、その家にあらずば、好みて益なきことなり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『人それぞれ、自分とは関係のない事だけを好む。
 法師は兵の道を目指し、東国の武士は弓を引く術も知らずに、仏法を知っている素振りを見せ、連歌を詠み楽器を嗜む。

 しかし、いい加減な本業以上に人から軽蔑される。

 法師だけではない、公卿、殿上人など上の位の人達まで同じように、武術を好む人が多い。

 百回戦って百回勝っても武勇の名を轟かせる事はできない。その理由は、運によって敵に勝っても別に勇者と言う人はいない。刀が折れ、矢が尽きても、降伏せず死を受け入れて後に名を成す事ができる。

 生きている間は、武を誇ってはならない。人の倫理に遠く、獣に近い振る舞いは、その道に無い者が好んでも益はないことである。』

 

 

『遠』

 文武両道の為に、徒然草を読んでいる身には、耳が痛い話です。

 兼好法師の時代で言う『武』と現在の『武道』とは、似て非なるものがあります。ここで言われている「武」は、まさに『人倫に遠く、禽獸に近き振舞』であって、人道的に許されるものではなかったのですが、それでもその時代には必要な事であった事も事実です。

 吉田兼好と言う人は、鎌倉時代の後期に生まれ、南北朝時代の半ばで世を去った人です。このような時代の背景では、武力は文化に優っても何ら不思議ではありません。

 結果として生き残らなければ、意味をなさない時代であったと思います。ですから、 専門外に興味を持ったのではなく、身を守るために武力に惹かれたのだと思います。

 兼好法師は隠遁生活をしていますから、片田舎と揶揄する文章も見られますが、本人が閉鎖的な世界にいて、現実から目を背けていた、理想主義者だったとも言えるのです。

 私も空手道と言う『武道』に惹かれて、今もその魅力の虜になっていますが、これも理想を追求してはいますが、戦わないための武道であっても、根底にあるのは、人間のさがとも言える暴力にあります。

 だからこそ、その暴力から脱するために、『武』を昇華した『武道』を提唱しています。真っ向から兼好法師の主張とはぶつかりますが、絵空事では何の解決にもならないと、私は思っています。

 私が考える人間とは、文化と言う兼好法師の言う和歌や、そして論語に見る孔子が言う所の雅楽を見出し、惹かれる心を持つのと同時に、破壊や戦いと言ったものに惹かれる素養があると思っています。

 しかし、どちらかに片寄った時に、人類は壊れる方向に進むと思っています。

 例えば和歌や音楽、そして文学などに趣向が傾いた時、また知識や道徳、あるいは故事やスローガン、そしてルールを決めたとしても、人間が元来持っている戦いや破壊といった衝動が起こった時に、その衝動から逃れられるとは思わないのです。

 なぜなら、衝動には、根拠がありませんし、原因となる事もないと思います。人間本来が持っている性質です。そこから湧き出てくる湧き水のようなものです。これを止めようとするためには、人間の持つ二つの方向を常にコントロールする必要があると思っています。

 私がよく引き合いに出す、惹かれる事も同じです。人間はそういう性質をもっているとしか言いようがありません。

 ただ、人によって惹かれる物が違うと思います。ですから百人百様の価値観が生まれるのだと思っています。

 『百たび戰ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。』と原文が言うように、戦いと言うのは、強いから勝つとは限りません。色々な要素が勝負の命運を分けます。

 ですから、私は争いを避ける空手道を提唱するのです。私が言う事が理解出来ない人は、これを詭弁と言うかも知れません。

 しかし、これは机上論で言っている分けでは無く、体験を通じて経験とした実感が、闘争の術から、人が平和に過ごしていくための『道』への昇華が最善の方法だと思っています。

 闘争の術ですから、相手を殺戮する事に傾いてしまうと、暴力になります。ですから、文武両道でなければなりません。

 それでも、人は何の根拠もなく、戦う衝動に駆られる事があります。よく『切れる』と言いますが、若いから、経験が浅いからと言うのは簡単ですが、歳はあまり関係がなく、堪忍袋が切れる事もあります。

 その時に、知識や経験ではなく、 身に付いた行動によって、この衝動を抑えられるとしたら、最後の一線を越える事が避けられると思います。

 よく『寸止め』と言われている方法は、実際に当たってからもコントロール出来るようになります。

 『寸止め』だけではなく、実際に危険な事を通して練習していると、その限度を身を持って体験する事もできます。

 体験すると言う事は、習慣にすると経験になり、そして知らない内に身に付く事になると思っています。それが、最後の一線を越えない事に繋がると思っているのです。

 人は良く自制心と言いますが、心が自制しなくても、身体が自制してくれるとしたら、良いと思いませんか。

 今開発途上ではあると思いますが、車の自動制御自動ブレーキと同じです。

 兼好法師の時代では、専門外の事にうつつを抜かしていると、本業も疎かになったと思いますし、現在でも同じ事は言えると思います。

 まず、本業をしっかりやってから、他の分野にも興味を持つ事も、本業を深める役目を果たしてくれます。

 私は、書道を始めて、空手道に生かせる事にも気付いた事もあります。ただ、どちらに主軸を置くかも大切な要素です。 人間はそんなに器用では無いと思います。いや、個人的な見解です。