論語を読んで見よう
【公冶長篇5-22】
[第十八講 狂簡と堕落]

 【孔子諸国遍歴図】は、「参考地図:中国まるごと百科事典[url:http://www.allchinainfo.com/history/simply/chunqiu]とグラフィック版論語(孔子諸国遍歴図)を基に作成しました)

 この地図にあるように、孔子は各地を転々としてその生涯を送ったようです。生まれは、この地図の真ん中に位置する魯で生まれています。色々な職には就いていますが、魯の大臣になる頃には、すでに50歳を超えていました。

 

 為政篇2-4『子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩』、「不惑」で知られる文章です。
 書き下し文『子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず』の通り、50歳にして天命を知り、大臣の地位に就いたのでしょう。しかし、まもなく隣国斉の策略に乗った魯に見切りをつけ、魯を去る事になりました。

 この斉の策略は、最近のオリンピックで見た美女応援団を彷彿とさせますが、女性歌劇団を送って、魯の政治の中枢を腑抜けにしたようです。このありさまに、嫌気がさし、ついに旅にでることにしたのだと書かれています。

 この講は、そんな旅の途中、上の地図で言えば、真ん中下に位置する「陳」と言う国に滞在している時の事です。

 如何にしてこの文章を理解するかは、その人によって変わって来ると思います。意を決して『論語』を読むことにしましたが、参考文献だけではなく、色々な捉え方をされるのが『論語』であると言う事を知りました。

 前にも書きましたが、『論語』は、孔子の言った事をそのまま書いたものでもなければ、インタビューに答えたものでもありません。ですから、真実とは言えない部分が見え隠れするので、読む人によって捉え方が違ってくるのだと思います。高弟でもなく、孔子が亡くなってから編纂されたものですから、当然と言えば当然です。

 しかし、日本では『論語』を永い歴史の中で、為政者や権力者が心の拠り所としてきた事は、事実だと思います。

 さて、今回『論語』は、何を語るのでしょうか。
●白文
『子在陳曰、帰与帰与、吾党之小子狂簡、斐然成章、不知所以裁之也』。
●読み下し文
『子、ちんましてのたまわく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子しょうし狂簡きょうかんにして、斐然ひぜんとして章を成すも、これをさい)する所以ゆえんを知らざるなり』。【公冶長篇5-22】

 また、言葉から調べて見なければよく分かりません。
「陳」は、初めに書いたように国の名前です。党は郷里の事です。小子は、小人とは違い、弟子を指す言葉だそうです。狂簡は、まだ未完成なままでやる気だけは十分にあると解釈しておきましょう。斐然は、成績が良い、章とは、道筋でしょうか、裁は衣服を裁断する意味ですが、比喩だと考えます。
 であれば、現代文としては、『孔子が陳と言う国に居る時に、帰ろう、故郷に帰ろう、残してきた弟子たちは道筋は出来ているが、まだまだ未完成である。判断する事も方法も知らない、まだまだ独り立ちできる状態ではない』こんな呟きがあったのでしょう。

 しかし、なぜ「陳」の国にいたのか、この言葉には、なんだかやるせなさが伝わってくるような感じです。もう少し参考文献から知識を得たいと思います。

 孔子が弟子を連れて魯を後にしたのは、大臣に就任してから5、6年後の事です。56歳の時とあります。『現代人の論語』では、内政改革に失敗をして、亡命同然に魯を離れたとしています。『グラフィック版論語』とは随分見解が違うようです。

 歴史的な考証が正しければ、孔子が魯に帰ったのは、68か69歳と記されていて、「陳」の国にいた時期は2回あります。一度目は59歳から2年間、二度目は63歳から64歳で3年程の滞在です。
 いずれにしても、「帰ろう、帰ろう」と言っても、直ぐに帰る事ができない事情があったのでしょう。

 であれば、私の思いは、当たらずとも遠からず、やるせない思いと焦燥感の表現として「帰ろう、帰ろう」と言ったのではないかと思います。常に憶測、推測の域がでないことへの歯がゆさは否めないものの、2500年も経っているのだし、として割り切る事にしましょう。

 では、なぜ私は、孔子が焦燥感を感じていると思ったのでしょう。

 孔子が置かれている立場については、知ることが出来ませんが、孔子が言うような『君子』になる素養のある人達を後に、魯を去る事になった無念さを引きづっていたと思われます。

 これまでの『論語』を見る限り、孔子の思想の元である、理想とする社会にも共感するところはありませんし、生き方にもそれほどの興味が起こる事もありません。ただし、現在『論語』の言葉として故事、ことわざの類には、人生の岐路での道を指し示してくれています。

 孔子に対する評価は、様々です。「結局あれこれ聞きかじっただけの耳学問ではなかったか」【出典:浅野裕一[2004]『諸子百家』講談社.】)と浅野裕一氏(東北大名誉教授)は言っています。
 私も同じように思います。それでも、まだ思想と言うほどしっかりしたものが確立していない時に、後の人が語録としてこれだけのものを残し、それが2500年もの間読み継がれ、『論語』に関する本が、百花繚乱の様相を呈しているのですから、無価値とは言えませんよね。

 ただ、学問をしている人は、概ね耳学問、知識偏重の傾向があると言わざるを得ません。人生の大半を、知ることに費やすのですから。
 
 科学者は知られている事を、証明する為に実証しようとします。文科系の学者は、実証するにも時間を戻す分けにはいかないのですから、書物を調べるしか方法がありません。その書物は、仮説を立てるには十分な知識を提供してくれますが、果たして、実証を手助けしてくれるのでしょうか。

 孔子は、確かに耳学問かも知れませんが、科学者と同様の仮説を立てて、実証しようとしたのではないでしょうか。それが『詩・楽・礼』を通して『徳治政治』を行い、世の中の安定、幸せを描いたのではないでしょうか。

 耳学問と言う言葉は、相手を愚弄するに十分な言葉だと思いますが、耳学問によって、何をするかが、現在行われている文明であり、文化なのだと思います。でなければ、座学の意味がなくなります。
 孔子が聖人であると、自分自身で言ったならともかく、後世の人が勝手に聖人と呼んでいるのですから、あまり聖人孔子に拘る事もないと思います。

 こんなに、座学の嫌いな私が言うのも変ですが、どちらか一方に偏る事の方が問題だと思っています。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.