『不動智神妙録』から学ぶ(Part 1)
「無明住地煩悩」

 武道を志す者にとって、「不動智神妙録」「五輪の書」は、一度は読む価値がある書物であると思っています。

 今日から「不動智神妙録」を少しづつ紹介しながら、私なりに読み解いてみたいと思います。

 さて、一般的には、「不動智神妙録」というものは、*沢庵和尚が、*柳生但馬守宗矩に宛てた手紙文とされています。

 ただ、「『不動智神妙録』の原本は現存せず、沢庵和尚から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないそうですが、沢庵和尚の作であり、しかも柳生宗矩のために書いたということは当時から認められていたようであり、今日では定説となっている」と*今村嘉雄(体育学者)は『大和柳生一族』の中に記述されています。
 また、*佐藤錬太郎氏によれば、『無明住地焼悩諸仏不動智』略して『不動智』が本来の書名であると記されています。

 私は色々訳本がある中から*池田 諭訳「沢庵 不動智神妙録」に出会い、蔵書としています。

 諸説がある中で、その内容については、剣道家はもとより武道関係者の修行の道しるべともなる内容であると思っています。特に心が身体におよぼす影響や、心を二つに分けた考え方などは、私の造語ではありますが、「髓心」との共通部分が多く見られます。

 「五輪の書」がビジネスマンの世界で見直されているようですが、この「不動智神妙録」においても、人間の本質に迫る内容であると思いますので、武道に関わりのない人でも、生き方として参考になる部分は多いと思います。

 「不動智神妙録」は、原文(写本の事)を読むとか、解説文・訳本を読むなどすると良いと思います。ただし、写本は毛筆草書にて書かれてあるので、これを活字にしている物でないと、難解すぎるかなとも思っています。

 ここでは、『沢庵和尚柳生但州兵法問答』<国立公文書館内閣文庫本>と、先述の池田 諭訳『沢庵 不動智神妙録』を参考にしながら、私なりの解釈を紹介しようと思います。

 沢庵和尚は、15の項目を挙げ(これも写本により違いが見受けられます)、これについてそれぞれ兵法の実際に当てはめながら仏教の教えを説明されています。
 ただし、14番目と15番目については趣が違いますので、13の項目について、ごくごく簡単に解釈していきたいと思います。

 今日は第一番目からです。

  • 無明住地煩悩
     無明とは、明になしと申す文字にて候。
    住地とは、止る位と申す文字にて候。仏法修行に五十二位と申す事の候。その五十二位の内に、物毎に心の止る所を住地と申し候。住は止ると申す義理にて候。止ると申すは、何事に付ても 其事に止るを申し候。
     貴殿の兵法にて申し候はゝ、向ふより切太刀を一目見て、其の儘にそこにて合はんと思へは、向ふの太刀に其儘に心が止りて、手前の働か抜け候て、向ふの人にきられ候。是れを止ると申し候。
     打太刀を見る事は見れども、そこに心をとめず、向ふの打太刀の拍子合はせて、打たうとも思はず、思案分別を残さず、振上ぐる太刀を見るや否や、心を卒度止めず、其のまゝ付入て、向ふの太刀にとりつかは、我をきらんとする刀を、我が方へもぎとりて、却って向ふを切る刀となるべく候。
     禅宗には是れを還把鎗頭倒刺人来ると申し候。鎗はほこにて候。人の持ちたる刀を我か方へもぎ取りて。還て相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。
     向ふから打つとも、吾から討つとも、打人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も心を止めれば、手前の働は皆抜け候て、人に切られ可申候。
     敵に我か身を置けば、敵に心をとられ候間、我が身にも心を置くべからず。我が身に心を引きしめて置くも、 初心の間、習入り候時の事なるべし。
     太刀に心をとられ候。拍子合に心を置けば、拍子合に心をとられ候。我が太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。これ皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿御覚え可有候、仏法と引当て申すにて候。
     仏法には此心の止る心を迷と申し候。故に、「無明住地煩悩」と申すことにて候。

    【出典】池田諭(1975)『不動智神妙録』, p.26.-p.29.

    【読み解き】
     相手が切りかかる、その太刀に対応しようと思うと心がそこに止まり、自分がするべきことが抜けて相手に切られてしまいます。
     相手の太刀は見ることは見ますが、心は止めず相手の拍子に合わせ、打つとも思はないし、考えることもしないで、入り込めば相手の刀は自分に当たらず反って自分の刀が相手を打つことができる。
     心を、相手にも、相手の太刀に置くことも、相手の拍子にも置かず、また自分自身にも心を置かず、自分自身の太刀にも、心を置かないことで止まるという状態になりません。
     無明というのは、ただ解らないということではなく、解らないことに気が付かない、解ったつもりでいる、と言った意味だと理解しています。
     ですから、住地すなわち、仏法でいう止まるという事すら気が付かない状態では、相手に切られてしまいますよと、沢庵和尚は、剣術を仏法の立場から話しているのではないでしょうか。

    【参照】

  • *沢庵和尚:  澤庵 宗彭(たくあん そうほう)天正元年12月1日(1573年12月24日) – 正保2年12月11日(1646年1月27日)臨済宗の名僧。
  • *柳生但馬守宗矩:1571年ー1646年 柳生宗厳の五男で歴史上剣士の身から大名にまで立身した唯一の剣豪
  • *今村嘉雄:1903年-1997年 昭和24年東京教育大教授。昭和41年退官後、専修大、東京女子体育大教授
  • *佐藤錬太郎:1953年-現在 北海道大学特任・名誉教授 東京大学院文学修士
  • *池田 諭:1923年-1975年 広島文理科大学卒。高校教師・雑誌編集・評論家

    【参考文献】
  • 池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.
  • 今村嘉雄(1994)『定本・大和柳生一族』新人物往来社.
  • 佐藤錬太郎(2001-03-01)『沢庵宗彭「不動智神妙録」古写本三種・「太阿記」古写本一種』(北海道大学文学研究科紀要 103号).