文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【45】

 今日の一文字は『品』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四十四段』を読んで見て、感じた文字です。

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 台風21号が猛烈な勢いで上陸しそうです。特に紀伊水道の左右に位置する地域の人は、十分注意が必要な状態です。

 私がいる所は、まだ時々やや強い風が吹き始めたくらいの状態ですが、これからかなり強い雨風になりそうです。

 昭和36年の第二室戸台風と同じようなコースだと言う事で、そう言えば家も浸水し、畳を全てあげたような記憶があります。

 今回も夕方の満潮時には、その時以上に水位があがる予想がありますので、私がいる所は、河が20mほど前にありますし、マンションでも一階なのでちょっと心配です。

 
 とりあえず、台風の影響のある地域にいる人は、今日は外に出ないよう、おとなしくしておくのが得策でしょう。

 これから、昼頃に雨風が強くなりそうなので、ブログを更新しておきましょう。

 
徒然草 第四十四段 〔原文〕

 怪しの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色合定かならねど、つやゝかなる狩衣に、濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童一人を具して、遙かなる田の中の細道を、稻葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かむかた知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹きやみて、山の際に總門のあるうちに入りぬ。榻にたてたる車の見ゆるも、都よりは目とまる心地して、下人に問へば、「しかじかの宮のおはします頃にて、御佛事などさぶらふにや」と言ふ。

 御堂の方に法師ども參りたり。夜寒の風にさそはれくる空薫物そらだきものの匂ひも、身にしむ心地す。寢殿より御堂の廊にかよふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。

 心のまゝにしげれる秋の野らは、おきあまる露に埋もれて、蟲の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは、雲のゆききも早き心地して、月の晴れ曇ること定めがたし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『  みすぼらしい竹の編戸から、えらく若い男が、月明かりで顔色は定かではないが、風情のある狩衣に濃い指貫のとても由緒のありそうな様子で、小さな童を連れて、ずっと遠くまで続く田の畦道を、稲につく夜露に濡れながら、なんとも素晴らしい笛を、きままに吹きながら歩いている。聞く人もいないと思うのに、どこに行くのか、見送りながらついて行くと、笛を吹くのをやめて、山の傍の大きな門のある屋敷に入っていった。
 榻にたてた牛車が見えているが、都で見るより目が止まる気持ちがして、召使に聞くと、「ある宮様が見えられる頃で、法事でもあるのでしょうか」と答えた。
 お堂の方には僧侶が集まっていた。夜寒の風に乗ってお香の匂いが身に沁みる心地がする。寝殿から御堂に続く廊下を行き来する女官の気配りなどは、人気のない山里とは思えない心遣いである。

 手入れもなく繁っている秋の野原は、夜露が溢れるほどになり、虫の音も愚痴を言うように聞こえ、遣水の音ものんびりしている。
 都の空よりも雲の流れも速く感じ、月が出たり雲に隠れたり絶え間がない』

 

『品』

 この文章を読んで、一番先に頭に浮かんだのは、大江健三郎氏の文章です。大江健三郎氏と言えば、ノーベル文学賞を筆頭に、芥川賞など幾つもの賞を得ています。

 私は本を読まないのですが、たまたま、悪文で有名だと言うので、400字詰め原稿用紙一枚程度の文章を読んだことがあります。

 まず、何が書かれているのか、その人の読み方によりどうにでも解釈可能な文体だと思いました。主語が一つのセンテンスから幾つも見つかります。このあたりで、文学に疎い私は、理解出来ずに、退散です。

 ですが、世間の評価は、先述した通りです。ですから、明らかに、私の読解力のつたなさが、理解するに至らなかったのでしょう。

 さて、今回の徒然草第44段も、同じような気持ちになりました。初めに断っておきますが、この文章を「実に美しい名文」と評価されている人もいますし、「兼好法師の考える理想の世界が描かれます」と書かれて、訳の最後に『仏教の「無常」に通じることを示唆しています』の記載が見られます。

 『美しい』と言う表現は、主観ですから、私が考える文章とは、価値観が違っているのでしょう。

 確かに文章全体を通して見ると、「品位」を感じます。とても、粗野な人が書いた文章とも思えませんし、文章的には「優雅さ」を醸し出していると思います。

 ただし、これも、兼好法師の生きた時代の言葉遣いも分かりません。今でも大阪の地域の事は、大体わかりますが、他の地域の言葉は、どの言葉が上品で、どの言葉が下品なのかも、認識していません。

 ですから、この第44段の文章の品位があるかどうかも、私の勝手な思い込みかも知れません。

 

〔三段論法〕

 私はやはり基本的には文科系ではないのしょう、理論が途切れるとついて行けません。よく三段論法という手法が文科系の人に見られますが、私は、起承転結であったり、原因があり経緯があって結果に表される事の方が理解しやすいと思っています。

 三段論法を認める所もあります。それは理論の飛躍がいとも簡単にできるからです。

 脈絡を考えずに、まるでタイムスリップのように、違う世界を見る事ができます。これは、 科学や会社での新しい事へのチャレンジに、非常に有効です。視点を変えて物事を客観的に見る事ができるのも、三段論法の利点です。

 私がここで言う三段論法は、あくまでも大前提・小前提・結論の流れで推論する方法を言っています。

 よく、引き合いに出される三段論法は、

 大前提:全ての人間は死すべきものである
 小前提:ソクラテスは人間である。
 結 論:ゆえにソクラテスは死すべきものである。

 と言うのでありますが、私が読むと、『だからなに?』です。

 大前提:英雄色を好む
 小前提:我色を好む
 結 論:ゆえに我は英雄である
 これは、誤った三段論法です。最初の前提になる部分に誤りがあると、結論も間違ってきます。この場合は、特殊な例ですが。

 こういった間違いが、三段論法には起こりやすいと思っています。

〔行間〕

 文学や俳句、和歌などは、行間を読むと言う言い方を聞いたことがあります。理論を構築する場合では、行間を埋める努力をするのが、より明確に相手に言葉を伝える方法だと思っています。

 では、もう一度、原文を精査して見る事にします。

 『怪しの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色合定かならねど、つやゝかなる狩衣に、濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童一人を具して、遙かなる田の中の細道を、稻葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かむかた知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹きやみて、山の際に總門のあるうちに入りぬ。』
 
 ここまでが一つの文章のセンテンスと考えられます。

 ここで矛盾点を指摘すると、『月影に色合定かならねど』と記述があるにもかかわらず『つやゝかなる狩衣に、濃き指貫、いとゆゑづきたるさま』とあります。ようするに「月の明かりだから顔色など詳細に見えないけれど」と書いて置きながら、着ている物の色彩を詳細に書かれています。

 「言葉尻を捕らえているだけ」と言われる事を承知で次に移ります。

 しかも、この若者と童との、兼好の距離感が不明です。「稻葉の露にそぼちつゝ」とありますから、多分膝辺りまでビショビショになっていると思います。月明かりで見えるのでしょうか。余程近い距離でないと、そこまで詳細には見えないと思います。

 どの程度の月明かりか分かりませんが、実際に月明かりは、思いのほか明るいと思います。しかし、人の着ている物や露に濡れた様子などは、私には見えません。実際に山の中で、月明かりだけを頼りに歩いた経験から感じた事です。昔の人は目が良く見えたのかも知れませんが。

 『御堂の方に法師ども參りたり。夜寒の風にさそはれくる空薫物そらだきものの匂ひも、身にしむ心地す。寢殿より御堂の廊にかよふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。』

 この文章については、兼好がこの屋敷の門を入って、中の様子を見ているのでしょう。これも疑問に思いますが、前回の文章からも兼好は、人の家に入る事を躊躇することはないと、思っておきましょう。

 しかし、『しかじかの宮のおはします頃にて、御佛事などさぶらふにや』と、その屋敷の召使が答えていますから、皇族が見えらのでしょう。普通は、然るべき人に許可を取るのが礼儀と言うものだと思います。

〔飛躍〕

 次の文章

 『心のまゝにしげれる秋の野らは、おきあまる露に埋もれて、蟲の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは、雲のゆききも早き心地して、月の晴れ曇ること定めがたし。

 どういう脈絡で、山の近くの大きな屋敷の中から、続くのでしょうか。私が言う三段論法です。タイムスリップしています。

 この屋敷との距離感が全く分かりません。まだ屋敷の中の様子なのでしょうか。それにしては、皇族がこられる屋敷の庭にしては、手入れが行き届かなさすぎます。

 『秋の野原』とありますから、「遣水の音」は、屋敷の外にいて聞いたとの描写と受け取れます。

 しかし、なぜ一転して、外に出てこの描写が必要なのでしょうか。この間を埋めても良さそうなものですが、そこは、和歌や俳句のように、読者が行間を埋めなければならないのかも知れません。

 深読みすると、屋敷の内と外の様子の違いを言っているのかも知れませんが。

〔矛盾〕

 そして最後には、
『都の空よりは、雲のゆききも早き心地して、月の晴れ曇ること定めがたし。』と締めくくっています。

 この直前に『遣水の音のどやかなり』と書いたばかりではありませんか。

 この文章の展開を私が読むと、「田舎らしく、のどかで遣水の音ものんびりしているように聞こえる」と思った矢先に、「都の空より雲のゆききも早き心地して」と続きます。

 この「都の空より」がなければ、天候が悪くなって、もしかしたら雨が降るかも知れない。
 法事が滞りなく行われるか心配しているのか、とも取れますが、「都の空より」と、今いる場所と比較されてしまうと、都会は喧噪であり、田舎は風情がありのんびりしていると、比較しているように、私は思ってしまいます。

 ここに矛盾を感じずにはいられません。
 
 先に記載した『仏教の「無常」に通じることを示唆しています』と評価した人は、何をもって「無常」と思ったのでしょう。

 この文章で次々に変化のある様子、すなわち「無常」である様子は、雲に見え隠れする月と、兼好の描写の展開が飛躍する事だと思います。それを、仏教でいう「無常」と結び付けるには少し無理があると感じます。

 これも、兼好は『都の空よりは、雲のゆききも早き心地して、月の晴れ曇ること定めがたし。』と締めくくっていますから、都が喧噪と思う事自体が、兼好と私に食い違いのある所かも知れません。それでも「遣水の音のどやかなり」と言っていますから、矛盾を感じてしまいます。

 兼好は、法師です。ですから、「諸行無常」については、他の段にも記載があります。ここでは、私の個人の見解ですが、仏教的な描写を探る事は出来ませんでした。