文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【15】

 今日の一文字は『懐』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 懐古 不易流行

 経済的な理由でしょう。昨夜の盆踊りは、前日の専門家の参加はなかったようです。音量も静かで寂しいような盆踊りでした。

 挨拶の音だけがやけに音量が大きく、これも忖度ですかね。困ったものです。
 
 今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第十四段 〔原文〕

和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」と言へば、やさしくなりぬ。

この比の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしきおぼゆるはなし。貫之が「糸による物ならなくに」と言へるは、古今集の中の歌くずとかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとはみえず。その世の歌には、姿・言葉、このたぐひのみ多し。

この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知りがたし。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞ言ふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。

されどこの歌も、衆議判しゅぎはんの時、よろしきよし沙汰ありて、後にも、ことさらに感じ仰せ下されけるよし、家長が日記にきには書けり。

歌の道のみ、いにしへに変らぬなどいふ事もあれど、いさや、今も詠みあへる同じことば・歌枕も、昔の人の詠めるは、さらに同じものにあらず、やすくすなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ。

梁塵秘抄りょうじんひしょう郢曲えいきょくの言葉こそ、又あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただ、いかに言ひ捨てたることぐさも、皆いみじく聞ゆるにや。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。いつも書いていますが、正式の読み解きではありません。

 『和歌ほど興味深い物もない。身分の低い者や木こりのすることも、歌にして読めば趣深い。おそろしい猪も「ふす猪の床」と言えば、優しく聞こえる。

 最近の和歌は、一節だけ深い趣を詠んでいると思えるものもあるが、古い歌のように、どういうものか、言葉に顕す事のできない描写を感じさせるものがない。

 紀貫之きのつらゆきの「糸による物ならなくに 」と詠った、古今和歌集の中でもつまらない歌と伝えられるが、今の人が、容易に作れるものではない。その当時の歌には、歌の形式や言葉の使いようは、この類のみが多い。
 にも拘らず、この歌だけが酷評されている理由が解らない。

 源氏物語には、「物とはなしに 」とこの一節が引用されている。同じ、古今和歌集にある、「残る松さへ峰にさびしき」と言う歌を酷評しているが確かに少しくだけた感じにも思える。

 しかし、この歌も、衆議判しゅぎはん※の時には、良い歌と判定された。後に、後鳥羽院ごとばいん※も特に良い歌に感じた言われたと、源家長の日記に書いてある。

 歌の道だけが、いにしえと変わりがないと言われるが、本当にそうだろうか。

 今、歌に詠まれる同じことば枕詞まくらことばも、昔の人が詠めば、また趣が違う。簡潔でいて素直であり、形式もスッキリして、しみじみとした深い感動があるように思える。 

 梁塵秘抄りょうじんひしょう※郢曲えいきょくの言葉にこそ良い言葉があるように思う。昔の人は取るに足らない言葉でも、みんな意味のあるように思えるのだろうか。』

〔参照〕

糸による物ならなくに:「糸による物ならなくに わかれぢの心ぼそくもおもほゆるかな」(古今和歌集第415番)
残る松さへ峰にさびしき:「冬の来て山もあらはに木の葉降り残る松さへ峯にさびしき」(祝部成茂はふりべの なりしげ)
衆議判:「 (1)歌合うたあわせで、参加した左右の方人かたうどが相互に論議しあって歌の優劣を決めること。香合こうあわせでもいう。(2)合議で、優劣・採否などをきめること。」(出典:大辞林 第三版 三省堂.)
後鳥羽院:後鳥羽天皇の事で、後鳥羽上皇とも言います。
梁塵秘抄りょうじんひしょう「歌謡集。後白河法皇撰。一二世紀後半の成立。本来、今様歌謡を集めた「梁塵秘抄」一〇巻と院の口伝を記した「梁塵秘抄口伝集」一〇巻とから成っていたらしいが、現存するのは「秘抄」巻一の抄出と巻二および「口伝集」巻一の小部分と巻一〇のみ。歌謡は、物尽くし、道行風の列挙形式が多い。」(出典:大辞林 第三版 三省堂.)
郢曲えいきょく「(1)〔中国の春秋時代、楚の都である郢の人が歌った俗曲の意〕 流行歌曲。はやり歌。俗曲。(2) 催馬楽さいばら・風俗歌ふぞくうた・朗詠・今様いまようなど、中古・中世の歌謡類の総称。」(出典:大辞林 第三版 三省堂.)

 

『懐古』

 頭の良い人ほど昔の事を良く評価するのでしょうか。兼好は、これまでも懐古趣味と言うのは言い過ぎかも知れませんが、そのように感じてしまいます。

 私は、特に昔の事を良いとも思いませんし、昔の書物の方が、現在のものより優れているとも思いません。

 理由は、そこまで昔の事を知らないですし、今の事も勉強した分けではないからです。教養の差かも知れません。

 前回も書きましたが、歴史にはそれだけ多くの人が関わって、いわばフィルタを幾つも、その時代を経るごとに、通して、現在に至っているという事だと思います。

 これから、人々の評価を受けて残り、いつの時代にか、評価されるものが、現在にもあるのではないかと思うのです。

 ですから、評価の対象が、その時代によって、駄作と思う人も、良作と思う人もいるのだと思っています。

 大体人を批判したり、評論する人の言う事を真に受けては、いけないと思っています。

 もし、評論家であり、学者であるにも関わらず、世の中に残るような物を作り出す能力があるとしたら別ですが、私の知る限り、評論家にも評論家になるべき専門の知識と教養がいるのですから、二兎を追う者は一兎をも得ずの通り、また、一芸に秀でるからと言って全てに通じるとは思えません。

 中には、レオナルド・ダ・ヴィンチのように一流の多芸多能多才な人も、世の中に輩出される事もあります。このブログで紹介した、宮本武蔵もその一人でしょう。それこそ数え上げれば、キリが無いほどいるのでしょう。

 それでも、一般的な凡人ではなく、天才と呼ばれる人です。一つの分野で頭角を現す人も、僅か一握りです。その一握りの中から、歴史のフィルタを通せば、こぼれ落ちる人が大半だと思います。

 ですから、古今和歌集のように全部で二十巻、千首を超えると言われる中には、当時から好まれる物、駄作と評価される物が混在していたのだと思います。

 歴史は面白いもので、時代によってはもてはやされ、時代によっては見向きもされないものもあります。『論語』などのように政治色によって評価が変わる事もあります。

 ですから、あまり昔のものに固執しても良くないと思っています。

 これは、空手の世界でも、昔を懐かしむあまり、昔を高く評価するのも、現在の在り方を酷評するのも、良いとは思いません。また、逆になっても良くないと思っています。

 私は、空手の場合は、 空手道自体が道半ばであると思っています。 私が松濤館流の型を、富名腰義先生が発刊された『空手道教範』を原点としているのは、いつの時代にか船越義珍先生を越える逸材が、輩出された時に、変更を加えれば良いと思っています。今は、変える根拠を見出す事はできないと思っています。

 

『不易流行』

 この言葉も何度もこのブログでは登場します。

 和歌ではありませんが、俳諧で有名な言葉だそうです。

 『古池や蛙飛びこむ水の音』は、あまりにも有名な俳句ですが、『おくの細道』で有名な、松尾芭蕉が説き始めたとされる、 俳諧の理念 の一つとして有名な四文字熟語です。

 この言葉は哲学的な言葉で、矛盾する二つの思想をうまく融合させている言葉だと思っています。

 一つは、残さなければならない事、一つは、残してはいけない物、しかしこの二つの選択が、不易をもたらす、則ち永遠に続く価値観を生むと言う考え方だと思います。
 
 この考え方には、今も昔もありません。時を超越したものの考え方で、流行こそ不易の本質と言っています。

 人間の本質に、向上するという性質があるのではないでしょうか。どのように向上するのかは見当もつきません。

 つい最近までは、労働であり生活や社会であり、国の向上に目を向けていたのかも知れません。その為の勉強であり教育であったと思います。

 兼好や孔子などが言っている社会と、随分趣が変わってきたことを感じています。

  一億総白痴化 と言った、社会評論家がいました。故大宅壮一氏です。1957年と言いますから昭和32年の事です。丁度、日本の国では、戦後の混乱期を脱して、テレビが各家庭に普及し、 「巨人・大鵬・卵焼き」 で有名な時代です。

 あれから既に60年が過ぎようとしています。故大宅壮一氏の危惧は、当たっていたのでしょうか。

 人間の順応性は素晴らしく、60年後には、労働も生活も社会も全く異質の文明・文化になっていると思います。人工知能が益々発展し、今の労働と全く違った環境になり、人間に求められるようになると、勝手な予測をしています。

 その時、兼好のような抜きんでた賢者が、昔は良かったと言うのでしょうか。

 エジプトの壁画に、 『今の若い者は』 と書かれてあると聞きました。確かめていないので、真意のほどは分かりませんが、多分そうだろうと、推測はできます。

 私は、60年後にはいませんが、このブログを読んでいる人の中には、60年後の世界を目の当たりにする人もいると思います。人生100歳の時代ですから。

 置いてけぼりにならないように、 『不易流行』 の本質を理解してもらいたいと思います。