「五輪書」から学ぶ Part-80
【風之巻】他流に太刀の搆を用ゆる事

 【五輪書から】何を学ぶか?  

 構えについては、 五方の搆の事で、武蔵の考えを示しています。そこでも、構えは、あってないようなものとしていますので、当然、他流が、その構えを前面に押し出して喧伝しているとしたら、批評の眼を向けるのは当たり前の事だと思います。

 理由については、原文、要約、私見に譲るとして、まず、構えについて考えて見ましょう。

 まず、構えと聞いて浮かぶのは、門構え、身構え、心構えのように何かに対して、防御する事が浮かびます。

 話は飛躍しますが、私が 『髓心』
という事を提唱して、日本空手道髓心会と改称してから随分月日が経ちますが、まだまだその思いが会員に届いていないと感じています。

 その中にも書いていますが、自分自身を観察してみますと、「我心「髓心」と言う二つの心を持っているのではないかと、思ったのです。
 その「我心」にあたる心が、身構える『我』(が)と言われるものだと理解しました。いわゆる、本当の自分が『髓心』であるならば、その心を守るために、『髓心』の周りに塀があり、門があると想像してみたのです。そして、その門番に立って、中の『本当の心』を守っているのが『我心』のように思えたのです。
 残念ながら、門番の役割は、外敵から守る事が大きな仕事です。もちろん、中に入れても良いのか、悪いのか、取捨選択するのも仕事の一部です。
 この事に違和感を感じたのです。本当に中身に良い事だけを取捨選択できる能力があるのかと、思ったのです。内容については、『髓心について』の本分を参照してもらいたいのですが、構えるという事には、至らない部分が常に介在していると、理解してもらいたいのです。
 そして、自分と思っているものが、本当は自分の手下である門番に過ぎないのだと、気付いてもらいたいのです。

 ここで言う『構え』には、構えに頼る事が、反って自分の技量を狭くしていることを、示唆しているのではないかと思います。

【風之巻】の構成

1. 兵法、他流の道を知る事
2. 他流に大なる太刀を持つ事
3. 他流におゐてつよみの太刀と云事
4. 他流に短き太刀を用ゆる事
5. 他流に太刀かず多き事
6. 他流に太刀の搆を用ゆる事   
7. 他流に目付と云ふ事
8. 他流に足つかひ有る事
9. 他の兵法に早きを用ゆる事
10. 他流に奥表と云ふ事
11. 後書
 
『原文』
6. 他流に太刀の搆を用ゆる事 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
太刀の搆を専にする事、ひがごと也。世の中に搆のあらんハ、敵のなき時の事なるべし。其子細ハ、むかしよりの例、今の世のさた*などゝして、法例を立る事は、勝負の道にハ有べからず。其相手の悪敷様にたくむ事也。(1)
物毎に、搆と云事ハ、ゆるがぬ所を用る心也。或ハ城を搆、或ハ陳*を搆などハ、人にしかけられても、強くうごかぬ心、是常の儀也。[兵法勝負の道におゐてハ、何事も先手/\と心がくる事也。かまゆるといふ心ハ、先手を待心也。能々工夫有べし]*兵法勝負の道ハ、人の搆をうごかせ、敵の心になき事を
しかけ、或は敵をうろめかせ、或ハむかつかせ、又ハおびやかし、敵のまぎるゝ所の拍子の利をうけて、勝事なれバ、搆と云後手の心を嫌也。然故に、我道に有搆無搆と謂て、搆ハ有て搆ハなきと云所なり。(2)
大分の兵法にも、敵の人数の多少を覚へ、其戦場の所をうけ、我人数の位を知り、其徳を得て、人数をたて、戦をはじむる事、是合戦の専也。人に先をしかけられたる事と、我先を*しかくる時ハ、一倍も替る心也。太刀を能かまへ、
敵の太刀を能うけ、能はると覚るハ、鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ、敵を打ときは、又、さく木をぬきて、鑓長刀につかふ程の心也。能々吟味有べき也。(3) 
【リンク】(1)(2)(3)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 6. 他流に太刀の搆を用ゆる事

 太刀の構えを第一に考える事は、不都合な事である。世の中に構があるのは、敵がいない時のはずである。
 その理由は、昔からの習慣であるとか、今、世の中で話題になっているからと、ルールを示すと言う事は、勝負の道にはない。相手に都合の悪いように企む事である。
 大体構えと言うのは、不動の場所を造る事である。あるいは、城を構えたり、陣地を構えるのは、人に攻められても、動じる無い事が常識である。
 [兵法では、勝負の道において、いつも先手先手と考える事である。構えると言う心は、相手の先手を待つ気持ちになってしまう。よく工夫する事]、兵法勝負の道は、相手の構えを動かして、敵が思っても居ない事を仕掛け、あるいは、動揺させ、あるいは、怒らせ、又は脅かし、敵が混乱する拍子を見て、勝つ事であるから、構えと言う後手に回る気持ちを避ける。しかるに、我道に有構無構と言って、構えはあっても、構えは無いという事である。
 合戦においても、敵の人数の多少を知り、その状況によって、見方の人数を考え、勝つ事が出来る人数を集めて、戦い始める事は、合戦では当然の事である。相手に先に仕掛けられる事と、自分が先に仕掛けるのでは、倍ほども優勢に戦える。
 太刀をよく構え、敵の太刀をよく受け、よく払うのは、鎗、長刀を持って、防御の柵を作っているのと同じで、敵を打つときは、又柵にしている鎗や長刀を使うようなものである。よく考えてみる必要がある。

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 『私見』

 今回の『構え』と言う事については、現在競技として行っている全ての武道に対する警鐘と思っても良いと思います。

 格闘技と言われているものも、ボクシング、剣道、柔道、空手、相撲にしても、必ず審判や行司が居て、始めの合図があります。
 ですから、始めの合図とともに攻撃を仕掛ける場合も、たまには見かけますが、概ね、間合いがありますから、相手との駆け引きから始まるのが普通です。
 この時、無防備である事は、勝負としては不利である事は明白です。ですから、大なり小なり構が存在します。相撲などは、構えていないように見えますが、仕切り線に手を付く事がすでに構えと言えます。

 武蔵は、構えている間があるのだったら、先に攻撃すれば良い、と言っているのだと思います。そして、構えると言うのは、身構えるのと同じで、相手の攻撃を待つ姿勢であり、後手に回る事を戒めています。

 武蔵が言う所の『有構無構』と言うのは、構えは、心であっても、身体や手足による構えであっても、構えようとして構えるのではなく、姿として偶然に手や足がある位置が構えである必要がある、と言いたいのではないかと、推測します。その偶然の位置が五つの構えであって、それも厳密にこの位置と限定する事もないと思います。

 私も、昔は色々な構え方をしましたし、50年程前までは、構えを見ただけで、流儀が分かった位、今から考えると特殊な構えをする人が多かったような記憶があります。まるで、映画のように仰々しく構える人もいました。

 競技空手の場合は特に、構えによって相手を動揺させたり、構えが勝負に有効な手段ではなくなったように思います。

 それでも、武蔵の言う五つの構えに相当する、構え方と言うのはあるのではないかと思います。
 数にはこだわる必要はありません。それよりも、構える余裕があれば、注意する点があります。
1. 肩から腕、肘、手首、手に力が入っていない事。
2. 出来れば、正中線上に片方の手がある事。両方の手がある時もある。
3. 手は、軽く握り、瞬間的に握る事も、開く事も出来る状態である事。
 以上の事は、常々稽古の時に習慣にしておく必要があると思います。一言で言うと、肩から手に掛けて力を入れる事がないようにする、という事です。

 構える余裕と書きましたが、「始め!」の合図と共に、戦い始める場合は、相手との距離がありますから、構える余裕があります。しかし、実戦では構える余裕はありません。その点を常に心に置いておく必要があると思っています。
 実際、『型』に構はありません。

   このテーマの内容に影響を与える文章とは思えませんが、『むかしよりの例、今の世のさた*などゝして、法例を立る事』(原文)については、その意味する所を計り知る事はできませんでした。  

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html