文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【239】

 今日の文字は『感心かんしん』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百三十八段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 感心

 

☆『「日本戦犯企業が生産」学校所持品に明示 韓国で条例案』
(朝日新聞デジタル 2019/03/20 11:36)

 「韓国北部、京畿道(キョンギド)議会の与野党議員27人は15日付で、韓国政府が「戦犯企業」と指定した日本の企業が生産した製品の一部について、道内の小中高校が所持する場合に、「本製品は日本戦犯企業が生産した製品です」と明記されたステッカーの添付を義務づける条例案を議会に提出した。韓国政府の国務総理室は、戦時中に朝鮮半島から徴用された人たちを働かせて軍需物資を生産した、現存する計284社を「戦犯企業」としている。

 同議会ホームページによれば、条例案は「強制動員で被害を与えたのに、半世紀以上、公式の謝罪や賠償に応じていない。学生に正しい歴史認識を確立し、教職員を戒めるため」としている。

 ステッカーの添付が義務づけられるのは、時価20万ウォン(約2万円)以上の製品で、毎年、保有状態を確認して公開するという。条例案は4月初めにも議会本会議で採択される見通しだ。(ソウル=牧野愛博)」

 もう、この条例が議会で決定されれば、完全に韓国とは断絶する方が、お互いの国の為だと思います。

 ようするに、韓国の与党は、日本とは距離を置きたいのでしょう。しかし、ただ距離を置くだけで、ここまでの条例案を出す事は、考えられません。もっと、日本に喧嘩を仕掛けているように思えます。

 こんな、幼稚な策略に乗る事は、考えられませんが、執拗に敵視された場合は、やはり国交を止めた方が良いと思います。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百三十八段 〔原文〕

御随身近友みずいじんちかとも自讃じさんとて、七箇条書きとどめたる事あり。皆、馬芸ばげい、させることなき事どもなり。そのためしを思ひて、自讃の事七つあり。

一、人あまたつれて花見ありきしに、最勝光院さいしょうこういんの辺にて、おのこの馬を走らしむるを見て、「今一度ひとたび馬を馳するものならば、馬倒たおれて、落つべし。しばし見給へ」とて立ちとまりたるに、又馬を馳す。とどむる所にて、馬を引き倒して、乗る人泥土でいどの中にころび入る。そのことばのあやまらざる事を、人みな感ず。

一、当代、いまだ坊におはしまししころ万里小路殿までのこうじどの御所なりしに、堀川大納言殿ほりかわのだいなごんどの伺候しこうし給ひし御曹司みぞうしへ、用ありて参りたりしに、論語の四、五、六の巻をくりひろげ給ひて、「ただ今御所にて、紫の朱(あけ)奪ふことをにくむといふもんを御覧ぜられたき事ありて、御本ごほんを御覧ずれども、御覧じいだされぬなり。なほよく引き見よと仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるるに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とて、もて参らせ給ひき。

かほどの事は、ちごどもも常の事なれど、昔の人はいささかの事をも、いみじく自讃したるなり。後鳥羽院の、「御歌に、袖と袂と、一首のうちに悪しかりなんや」と、定家卿ていかのきょうに尋ね仰せられたるに、「秋の野の草の袂か花薄(はなすすき)穂にでて招く袖と見ゆらんと侍れば、何事をか候ふべき」と申されたる事も、「時にあたりて本歌を覚悟す。道の冥加なり。高運なり」など、ことことしく記しおかれ侍るなり。九条相国伊通公の款状かじょうにも、ことなる事なき題目をも書き載せて、自讃せられたり。

一、常在光院じょうざいこういんの撞き鐘の銘は、在兼卿ありかぬのきょうそうなり。行房朝臣ゆきふさのあそん清書して、鋳型いかたにうつさせんとせしに、奉行の入道、かのそうを取り出(い)でて見せ侍りしに、「花のほかゆうべを送れば、声百里はくりに聞ゆ」と言ふ句あり。「陽唐ようとうの韻と見ゆるに、百里あやまりか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、筆者の許へ言ひやりたるに、「あやまり侍りけり。数行すこうとなほさるべし」と返事かえりごと侍りき。数行も如何(いか)なるべきにか、し数歩(すほ)の心か、覚束なし。

数行なほ不審。四五しごなるべし。鐘四五歩不幾いくばくならざるなり。ただ、遠く聞ゆる心なり。
一、人あまたともなひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行堂じょうぎょうどうのうち、竜華院りょうげいんと書ける古き額あり。「佐理さり行成こうぜいのあひだ疑ひありて、いまだ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵つもり、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃きのごひて、おのおの見侍りしに、行成位署こうぜいいしょ・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。

一、那蘭陀寺ならんだじにて、道眼聖どうげんひじり談義せしに、八災と伝ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化しょけみな覚えざりしに、局の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

一、賢助僧正けんじょそうじょうにともなひて、加持香水かぢこうずいを見侍りしに、いまだ果てぬほどに、僧正帰りて侍りしに、ぢんまで僧都見えず。法師どもを帰して求めさするに、「同じさまなる大衆だいしゅ多くて、え求め逢はず」と言ひて、いと久しくしてでたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。

一、二月きさらぎ十五日、月あかき夜、うちふけて、千本の寺に詣でて、後より入りて、ひとり顔深くかくして聴聞ちょうもんし侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ・人よりことなるが、わけ入りて膝に居かかれば、匂ひなども移るばかりなれば、便あしと思ひて、すりのきたるに、なほ居寄りて、おなじ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所さまの古き女房の、そぞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひいだしたるに、「更にこそ心得侍らね」と申してやみぬ。

この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局みつぼねの内より人の御覧じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てていだし給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、はかり給ひけるとぞ。

 

『現代文』

『御随身近友が自画自賛した事を七箇条書き留めている。皆、馬芸や、大したことも無いことばかりである。その先例を思い、私も自慢できる話を七つ書いた。

一、人を大勢連れて花見をして歩いた時、最勝光院さいしょうこういんの辺で、男が馬を走らすのを見て、「もう一度馬を走らせれば、馬が倒れて落ちてしまう。しばらく見ていなさい」と言って立ち止まると、また馬を走らせた。止まる所で馬を引き倒し、乗っている人が泥の中に転げ落ちた。私が言った事に間違いがなかったので、人はみんな感心した。

一、現在の天皇が、まだ皇太子だったころ、万里小路殿までのこうじどのを御所にしていた時、堀川大納言殿ほりかわのだいなごんどのがおそばに仕えていた控室に、用があって参ったところ、論語の四、五、六の巻を広げられ「只今御所で、紫のあけ奪ふことをにくむといふ文章を見たいと言われて、御本を見られていたのですが、見つける事ができない。もっとよく探して見るように言われています」と言われたので、「九の巻のどこそこにあります」と申したら、「これはうれしい」と言って、持って参られた。

 このような事は、子供でも分かる事だが、昔の人は少しの事でも、大げさに自慢する。後鳥羽院の、「歌に、袖と袂と、一首のうちに同じ意味の言葉を入れるのは悪い事か」と、後鳥羽院の、「御歌に、袖と袂と、一首のうちに悪しかりなんや」と、定家卿ていかのきょうに尋ねられたところ「[秋の野の草の袂か花薄はなすすき穂にでて招く袖と見ゆらん]とありますので、何も問題はありません。」と言われたのも、「その時に、本歌を覚えていた事は、歌道の加護であり、幸運である。」などと、仰々しく書き記されている。九条相国伊通公の履歴書にも、大した事も無い事を載せて、自画自賛している。

一、常在光院じょうざいこういんの撞き鐘の銘は、在兼卿ありかぬのきょうの草稿である。行房朝臣ゆきふさのあそんが清書して、鋳型いかたに移そうとした時、奉行の入道が、この草稿を取り出して見せ、「花のほかゆうべを送れば、声百里はくりに聞ゆ」と云う句がある。「陽唐ようとうの韻と思われるが、百里と云うのは間違いでしょうか」と私が言ったのを、「よく兼好に見せたものである。自分の手柄である。」と、筆者の許へ手紙をだした「間違っています。数行すこうと直してください。」と返事を貰った。数行すこうもなぜだろうか、もしかしたら数歩の意味だろうか、定かではない。
 数行すこうと云うのもおかしい。数は四五であろう。鐘の音が四五歩では大した距離ではない。ただこの句は、遠く聞こえる意味である。

一、人を大勢連れて、三塔巡礼をした時、横川の常行堂じょうぎょうどうの中に、竜華院りょうげいんと書いた古い額があった。「佐理さり行成こうぜいのあひだ疑ひありて、いまだに決まっていないと申し伝えられている」と、堂僧が大げさに申しましたのを、「行成ならば裏書あるはず。佐理ならば裏書がないはずである」と言うと、額の裏は塵がつもり虫の巣で汚らしくなっているのをよく掃き除いて、各々が見ると、行成位署こうぜいいしょ・名字・年号、はっきりと見えたので、人は皆、感心した。

一、那蘭陀寺ならんだじにて、道眼聖どうげんひじり談義せしに、八災を忘れて、「これを覚えていますか」と言われたので、修行の僧はみな覚えていなかったのだが、部屋の中から、私が「これこれでしょうか」と言うと、素晴らしいと感心した。

一、賢助僧正けんじょそうじょうのお伴をして、加持香水かぢこうずいを見た時に、まだ終わらない内に、僧正が帰ってしまったので、ぢんそとにも僧都そうず(僧正)が見当たらなかった。法師達を戻して探させたが「同じような衣装なので人が多く、探せなかった」と言いいながら、大変時間が経ってから帰って来た。「大変困った。あなた、探してください」と言われたので、私が引き返して、探し出して僧正をつれて来た。

一、二月十五日、月の明るい夜更けに、千本釈迦堂に参詣し、後ろより入って、一人顔を深く隠して説法を聴いていたところ、上品で、姿・香りが人と違った女性が、人を掻き分けて入って来て、膝にもたれかかり、匂いも移りそうなので、都合が悪いと思って、避けたが、なお寄って来たので、立ち去った。その後、ある屋敷に古くから仕えている女性が、世間話のついでに、「なんとも風情の無い人です。見損ないました。情が無いと恨みを持っている人がいるのですよ」と言われたので、「何のことかわかりません」と言ってその場は終わった。

この事を後で聞いたのは、あの聴聞の夜、御局みつぼねの中のある人が私を見つけて、仕えている女性に化粧をさせ「うまくいけば、言葉などを掛けなさい。その様子を話せば、おもしろい」と言って、企てたとの事。』

 

 

『感心』

 自慢話など聞いても仕方がないのですが、兼好法師の七つの出来事に感心してみましょう。

 一つ目は、まるで預言者ですね。何か落馬するような事を見つけたのでしょう。

 しかし、解っているのであれば、馬に乗っている人に教えてあげれば良いのに、と思ってしまいました。

 二つ目は、論語の隅々まで熟読していたのでしょう。これには脱帽しました。

 論語の陽貨第十七18に『子曰。惡紫之奪朱也。惡鄭聲之亂雅樂也。惡利口之覆邦家者。』と言うものがあります。この赤の下線の部分が、これにあたります。

 兼好法師のへりくだった言い方なのか、その程度と人を馬鹿にした言い方が、どうも馴染めません。

 三つ目は、歌人の兼好ですから、当時の句には、ルールがあり、そのルールとは違うと言っているのですが、果たしてその指摘があっているのか、私には解りません。

 四、五つ目は、やはり昔の事に造詣が深いと言えます。すごいですね。

 六つ目は、探し物が得意なのでしょうか。ただ、相手が好きな人とか、気になる人の場合は、どんなに大勢の中に居ても、光って見えるように思います。中学生の時の記憶ですが。

 七つ目は、女性の色香に惑わされなかったという事でしょう。

 兼好法師も云っていますが、たわいもない事、どうでもいい事を書き綴って、御随身近友が自画自賛した事を皮肉っているのでしょうか。

 それにしても、兼好法師はよく勉強していたのでしょうね。いくら勉強しても、熟読しても、論語の何巻のどこに書かれているかを、即座に答えるというのは、IQの非常に高かった人と思います。

 普通人間は、と言うより私の場合は、勉強しても、次から次に忘れていくのですが・・・。

 しかし、取り方によっては、兼好法師の自慢話に聞こえます。さて、どちらでしょうか。