文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【76】

 今日の文字は『遁世とんせい』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第七十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 遁世

 

 
 昨日、残りの3課題の内、2つは再提出を覚悟していたのですが、3つとも合格し、五段の通知が来ました。

 これで最後と思ったのですが、同封の書類に六段位合格講座のご案内と言うものが入っていました。

 思わぬ通知で、まだ戸惑っています。

 いつからでも、始められると書いてありますので、ちょっと考えます。取りあえず、当初の目的は達したと言う事で・・・。

★ 台風25号は、少し日本海側にずれているようですが、何もなければ良いですね。

 今朝北海道で震度5弱の地震があったようです。結構震度5弱でも強いと思います。被害が無ければ良いのですが。

★「ながらスマホ事故、控訴棄却=求刑超え判決支持-大阪高裁」
(時事通信社 2018/10/04 17:58)
 こんな見出しがありました。最近は、歩いている人でもスマホを片手に下を向いてあるいている姿をよく見ます。器用に前からくる自転車や人を避けているのですが、スマホに集中している分けでもないのですかね・・・

 スマホも便利だとは思いますが、立ち止まって使うとか、座るとか、静止しないと使えないようにすると言うのは、どうでしょう。色々な事ができるようになってきていますから、自動車を運転している時は、使えないとか、オートバイや自転車に乗っている時は使えないとか、機能強化も良いですが、安全強化も出来ると思うのですが・・・・。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第七十五段 〔原文〕

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。

 世に從へば、心ほかの塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別みだりに起りて、得失やむ時なし。惑ひの上に醉へり、醉の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。

 いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身をしづかにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活しゃうかつ人事にんじ・技能・學問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止觀まかしかんにもはべれ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『退屈な生活を侘しく思う人は、どのような気持ちなのだろう。心が奪われる事も無く、たった一人でいる事の方が良いのに。

 社会生活をすると心は外部のどうでもよい事に奪われ惑い易く、人と交われば、言葉は聞く人の取り方により変わり、まったく真意が伝わらない。

 人と戯れ、物に対して争ったり、一度は恨んだり、一度は喜ぶ。だからと言って心が安定する事も無い。分別が定まらず損得の考えが止まらない。惑う心に酔い、酔いの中に夢を見る。呆然としているのは皆同じである。

 いまだに誠の道を知らなくても、社会と離れて身を静かにし、物事に関わらず心を平穏にする事が、一時的にも楽しめると言える。
 「生計・人間関係・技能・学問等の諸縁を止めよ」と摩訶止觀まかしかんにもある。 』
【参照】
摩訶止觀まかしかん:法華三大部の一。一〇巻。594年、隋の智顗ちぎ述、灌頂かんじよう筆録。天台宗の根本的な修行である止観、すなわち瞑想法を体系的に記述、その究極的世界観を明らかにする。天台摩訶止観。天台止観。止観。
(出典:大辞林第三版 三省堂.)

 

 

『遁世』

 「つれづれわぶる人」と原文にあるのを、「退屈な生活を侘しく思う人は」と訳しましたが、少し分かりにくいので、意味を補います。

 「人と会話をする事もなく、働く事もせず、一日中のんびりと、物思いにふけり、何か作る事もせず、何に興味を持つ分けでもなく暮らす事、そんな堕落した生活をしたくない、あるいは、そんな退屈な生活には耐えらないと思う人は」と補足しました。

 出家をする人には、色々な立場があると思っています。

 一つは乳母日傘で育てられ、何不自由なく育った人が、生計を立てると言う事も知らずに、好き放題生活している事に飽き、世の中の無常を感じた場合。
 もう一つは、生計が苦しく、または世間の風の冷たさや、矛盾に耐えられず、世の中に嫌気がさし、世の中に背を向けた場合や人から受け入れらないような犯罪や行いをした場合。
 他にも、後述しますが、政治的に出家を余儀なくされた場合もあるでしょう。 

 ようするに、社会に背を向けた場合、あるいは社会の営みから遠ざけらた場合に、社会との縁を断ち切るために行われたものが「出家」であったと思います。

 こんな事を書くと、宗派によっては、異論反論があるとは思いますが、覚醒するために世俗と縁を切る必要性を感じないのです。

〔社会生活〕

 確かに、世俗と縁を切る事で、環境は整うと思いますが、『 十牛図 』のように市井しせいにあってこその修行であると思っています。

 徳川家康の遺訓『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。
』のように、辛い事が次から次へと起こるかも知れません。しかしこれに耐え、乗り越えて死を迎える事が、人生では無いかと思っています。

 人生の中では、世の中に対して嫌気がさし、逃げたくなる気持ちも分からない訳ではありません。

 自分の無力さを知って、どうにもならないと思う事もあるでしょう。正しい事も間違っている事も混とんとして、どの考えを選択する事が求められているのかも分からなくなり、自暴自棄になる人もいるかと思います。

〔政治と出家〕

 平安時代から鎌倉時代と言えば、貴族が続々と出家した時代です。

 お釈迦様が出家した時代と、日本の出家とは随分様子が違っていたように感じています。

 特にこの平安時代や鎌倉時代の出家には、天皇や貴族の子女が多くみられるのは、政治の背景があったようです。ようするに跡目に対する争いを予め起こらないような施策であったのでしょう。

 また、鎌倉時代や室町時代では戦争があり、その戦争に負けて、世俗をすてる者もいたようです。

 ですから、出家した僧侶の中にも高僧となる人もいましたが、貴族から出家した人の、世話をするための僧侶もいたのが現実です。

 その中でも当然、悟りを開こうと修行に勤しむ人達もいたと思いますが、その他の僧侶の方が多数派だったように思われます。

 ここで兼好法師が、世俗に対する批判とも思える、言葉は悪いですが、世俗の生活に汲々きゅうきゅうとした人々を、ちょっと小馬鹿にした言い方は、如何なものかと思ってしまいます。

 兼好法師が、「なぜ出家しないのか」と疑問に思う、と書かれていますが、出家をした人たちの実態も、世俗となんら変わりがなかったのではないかと、思ってしまいます。

 この徒然草の他の段では、法師の事を随分と軽蔑して揶揄していると思われる文章も見られます。少し矛盾を感じてしまうところです。

〔末法〕

 すでに日本では、平安時代の初期の頃から末法であるとの自覚があったと言われています。

 釈尊が亡くなって千年続くと言われた正法(釈尊が伝えた正しい教え)ですが、釈尊の生誕が定かではないので、なんとも言えませんが、色々な説の真ん中を取り、紀元前600年としても、兼好法師の時代では、およそ1900年から2000年ほど経っています。ですから、すでに正法の世が過ぎ、末法の世の中になったいたのだと思います。

 それを考えますと、兼好法師が出家を勧めても、あまり説得力がありません。

 このブログの『文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【50】』、徒然草、第49段にも、出家を勧めている文章がありましたが、私はその段では、ことごとく反論しています。

 理由は簡単です。今までの歴史を振り返っても、どれほどの人が出家をして悟りを開いたのでしょう。

 まして、解脱をして煩悩から解放され自由な世界を知る事は、人間にとって豊かで幸せをもたらすとは思いますが、出家しなければ解脱できないのかも疑問です。あまりにも、出家と言う概念から逸脱した出家が横行しすぎた事も要因の一つです。

 一部の人が隠遁いんとん生活をする事は、止むを得ないと思います。ここで「止むを得ない」と書いたのは、本来は社会生活を営むのが人間としての本分であろうと思うからです。

 人は、と言うよりホモサピエンスと言った方が良いと思いますが、社会を構成する事で、これまでの歴史を刻んで来たのですから。

〔仮説〕

 このホモサピエンスと書いた理由があります。単なる仮説ですから、聞き流してもらっても構いません。 興味のある方は、私の仮説に耳を傾けて下さい。

 ホモサピエンスが、人の進化の途中であったと仮定したらどうでしょう。ホモサピエンスが地球上に現れるまでに、どれほどの進化があったかは分かりませんが、それでも学校で習う程度、北京原人やネアンデルタール人、 クロマニョン人などが存在した事は、知識の中にあります。

 とすれば、今後ホモサピエンスに取って変わる「」が現れても不思議ではありません。

 そんな事を考えながら、インターネットで検索していますと、『サピエンス全史』と言う書籍を見つけました。初版発行: 2016年9月9日、著者: ユヴァル・ノア・ハラリ、 柴田裕之とありましたので、内容を少し見て見ました。

 その中で、「『サピエンス全史』の第四章で「ホモ・サピエンスは、あらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ生物史上最も危険な種だ」と書いてある部分を見つけました。

 正にそのとおりだと、納得してしまいました。

 であれば、出家者が妻帯を禁じられた事も、頷けます。人類は遠からず消滅すると思ったのかも知れません。いや消滅するに値する生物だと思ったのかも知れません。

 しかし、如何に「生物史上最も危険な種だ」であったとしても、人間には智慧があります。その知恵を覚醒させるための教えも、釈迦の教えには見られます。

 人類消滅か存続か、この諸刃の剣もろはのつるぎを、人間が使いこなす事が出来れば、消滅せずにホモサピエンスとしてこれからも、地球上に存在するでしょう。

 しかし、使いこなせなけれは、新たな「人」が、ホモサピエンスにとって変わるのかも知れません。