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髓心という言葉の説明の中で、「ものには仕方がある」ということの説明をしました。その「もの」が「空手道」であっても変わりありません。その「仕方」が原則です。そして、「仕方」には、なぜその「仕方」を選択するのかという「理由」と「仕組み」があり、これを原理といいます。また、原理・原則があっても、空理空論であっては、「もの」は達成できません。「空手道」においては、修行が必要になります。この修行の基になるものが、原理・原則に基づいた基本です。基本と原理・原則は、ひとつで成り立っているわけではありません。その達成する「もの」により複雑にいくつもの基本と原理・原則が絡み合いながら均衡をたもち成り立っています。
髓心会は、「我心」を鍛え練り、「髓心」という心を開花させ、共に豊かで快活な人生をおくりましょう、といっています。単なる精神論ではなく、具体的な方法があって初めて『髓心』ということがわかってきます。反復練習や根性で『髓心』が開けるものではありません。心に問い、心を感じ、体に問い、体の動きを感じ、あるいは、術を会得する過程にその道が開かれます。 そのためには、修行の成果によって『髓心』を得られる。そのような仕組み(原理)でなければなりません。また、その仕組みにしたがって修行するための規則や法則(原則)が必要となります。 大きな枠組みの基本と原理・原則があり、その中にいくつもの基本と原理・原則があると想像してください。
その大きな枠組みが、「髓心」を見つけるための基本と原理・原則です。
《原理》
「無心の前の一心」
無心こそ「髓心」を開かせてくれます。なぜか。『二つの心』に記述したとおり、良し悪しはともかく、普通に生活をしていると髓心は時折しか顔を見せてはくれません。我心が生活とともにあります。我心には我々人間が生きていくために必要な要素を数多く含みます。そして、全ての能力の源泉とも言える髓心と細い糸で結ばれています。
その糸が一心です。
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