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『不動智神妙録』から学ぶ(Part 2)
「諸仏不動智」

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 さて、今日は「不動智神妙録」の二番目の項目にある、諸仏不動智を紹介しながら、読み解いて行くことにしましょう。

【読み解き】

 この項で書かれているのは、只一つ、不動智です。色々な例を出し、その真意を伝えようとしています。果たして時の剣術の第一人者である柳生但馬守に対して、必要な説明なのだろうかと、ふと疑問に感じないわけでもありませんが・・・・。

 内容を大雑把に見てみると、心は自由闊達に動き少しも止まる事がない事を不動智という。と、初めに結論を言っています。しかし、それでは説明が足りないと、不動明王を例に心の動かぬさま、すなわち物事に動じないさまを示し、動転して心がフリーズしてしまわない事が不動智であると説明しています。ここで、矛盾した言葉を挙げて説明しているので、混乱してしまうのではないでしょうか。
 初めに、心の「自由闊達に動き、止まることはない」さまを言い、次に心は「動かず、物に動じない」さまを挙げています。これは一見矛盾する言葉です。
 見たものに心を動かされると心が止まってしまう。例えれば、相手が10人いても一太刀を受け流し、心をそこに止めなければ次の相手に対応する事ができると「動じてはならない」ことを示しています。
 次に、千手観音にしても弓を取る手に心が留まれば999の手は役に立たたない、不動智が開けば1000の手が全て役立つと、ここでは心が「止まることの弊害」を説いています。ここでも矛盾する言葉で対比させています。
 また、木の葉を例にとって不動智が開けばまさに千手千眼の観音であるといいます。
 しかし、普通の人はなかなか千手観音になりがたい。ある人は嘘だといい、ある人は妄信するが、良く知れば道理を理解して尊ぶことになる。仏法に限らず色々な道はこういうものであり、神道は特にそういうものである。と、不動智に至る難しさを語り、それでもこれが真理なのだと説きます。
 初心から始めて不動智を得られるともう一度初心に戻る事があると、不動智を得た時の様子を説明しています。
 兵法に例えれば初心はただ本能に従うが、永年稽古を積むと色々知識や技を習得しているので、雑念が湧く、もっと稽古を積むとその雑念が消え、初心に戻る。最初と最後は似たようなもので、例えれば一から十を数えれば一と十は隣りあわせと説いています。また音もしかりと例を挙げています。
 無明住地の煩悩と不動智が一つになり無心無念で少しも心を惑わせる事がなくなる。と論法が飛びます。
 また、仏国国師の歌を例にあげ、心がなくても案山子は用を足している、と道を極めた者の所作を例えています。
 無知な人は表面に現れるものはないが、同じように出来た人もまた表面には出さない。単なる物知りは、ひらけかそうとするのでみっともない。とその頃の世相に警鐘を鳴らします。
 私が理科系なので、三段論法の矛盾を感じてしまうのかも知れませんが、私にとって、腑に落ちるのは、木の葉を例にとって、全体を見ている時に一枚の木の葉に心を囚われてしまうと、今認識していた他の木の葉を見失ってしまうという件(くだり)です。これは空手の指導でもよく引き合いに出します。
 相手と向かい合ったとき、右手が動いたからといって、右手に心を移すと、左手も、右足も左足も、その動きを感知するまでに時間がかかります。同時に自分自身の動きもフリーズして、自由に動かすことが出来なくなってしまいます。ほんの一瞬ですが、その間が隙になります。かといって動いた右手を感じない分けではありません。木の葉の全体を認識しながら、かつ一枚の葉に注意を払うのです。
 不動智とは、まさに、自由闊達に動く(止まらない事)と、動じない(止まる事)の矛盾を、修行や稽古によって、身につけようと言っているのではないでしょうか。

【参考文献】
    ・池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.

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