さて、今日は「不動智神妙録」の六番目の項目にある、心の置き所を紹介しながら、読み解いて行くことにしましょう。
- 心の置き所
心を何処に置こうぞ。
敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取られるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取られるなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるゝなり。我太刀に心を置けば我太刀に心を取らるゝなり。我切らじと思ふ所に心を置けば、切られじと思ふ所に心を取らるゝなり。人の構えに心を置けば、人の構えに心を取らるゝなり。兎角心の置き所はないと言ふ。
或る人問ふ、我心を兎角余所へやれば、心の行き所に志を摂止めて、敵に負けるほどに、我心を臍の下に押込めて余所にやらずして、敵の働によりて転化せよと云ふ。
尤も左もあるべき事なり。然れども仏法の向上の段より見れば、臍の下に押込めて余所へやらぬと云ふは、段が卑しくし、向上にあらず。修行稽古の時の位なり。敬の字の位なり。又は孟子の放心を求めよと云ひたる位なり。上りたる向上の段にてはなし。敬の字の心持なり。放心の事は、別書に印し進じ可レ有二御覧一候。
臍の下に押込んで余所へやるまじきとすれば、やるまじと思ふ心に、心を取られて、先の用かけ、殊の外不自由になるなり。
【読み解き】
あーちゃんが、ブログ書くのを手伝おうとしていますが、あーちゃんに心を止めると、ブログが書けません。と、言うより、邪魔しています。『ddddddd//////////////////////////////////////////////////////…..』って書いてくれました。
沢庵和尚は、ここでも、同じような事柄を例にとり、ひたすら『不動智』について解説を試みていますが、この項では、じゃあ、一体どこに『心』を置けば良いのかを、修行の段階に応じて説明しています。
武道の世界では、臍下丹田(参照)と言う言葉を使いまが、ここに心を置くため、呼吸方法などにより強化する事があります。沢庵和尚は、これも「敬の字の心持」と初心の段階で行う稽古であると言っています。孟子の言う、「放心を求めよ」についても同じレベルであると言います。この「敬の字の心持」と「放心を求めよ」については、改めて項を変えて説明しています。
確かに、臍下丹田に心を置くと、心が臍下丹田から動かなくなりそうですね。「唯一所に止めぬ工夫、是れ皆修行なり。」と言っています。
私は、『無心の前の一心』と言っています。経験上ですから、初心と呼ばれる部類に属するものと思いますが、稽古の段階で、命を懸けるくらいに一心になっていると、ある時、ふと、その一心が無くなる瞬間があります。この事は、今風に表現すると、CPUを複数持っているコンピュータが同時に複数の処理をこなす事と似ているように思います。
例えば、中段の蹴りを受けながら、決して心は奪われず、次の攻撃に対処すると同時に、相手に隙があるとみると、すぐさま攻撃に移れる状態ができるという事です。
今から40年程前になりますが、オートバイに乗って道路の左端を走っていた時、突然右側を走っているタクシーが前に割り込み、左の扉を開いたのです。気が付くのが遅かったのか、ブレーキを掛けたのですが、止まる事も出来ず、オートバイから投げ出され、体は歩道の電信柱にまさに激突するかと思われたのです。咄嗟に目の前の電信柱に十字受けをして、事なきを得ました。当然両腕は、かなりの擦り傷になりましたが、ほんとにあっと言う間の出来事でした。しかし、情景がかなりスローモーションであった事を覚えています。
こういう経験をした人は、数多くいると思います。その時事なきを得た人の心の在り方が不動智というのではないでしょうか。
逆の事も多く経験しました。組手の最中に、相手の中段蹴りを、いつになく上手く受けられた時の事です。当然、上手く受けられたのですから、「間、髪を容れず」反撃をするべきなのですが、あまりにも綺麗に受けてしまったものですから、心がそこに居ついてしまい、反撃の機会を失ってしまい、次の攻撃を受けてしまう事になりました。
まさに、「心を一方に置けば、九方は欠けるなり」を絵に書いたようなものです。
【参照】
一般的には、眉間と呼ばれる眉毛の間の皮膚の下にある上丹田、鳩尾(みぞおち)又は水月と呼びれる皮膚の下にある中丹田、臍の3寸の皮膚の下にある下丹田(これを臍下丹田)と呼ばれているが、これに頭頂部と会陰を丹田に入れる場合もあります。
【参考文献】
・池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.
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