さて、今日は「不動智神妙録」の七番目(本心妄信)と八番目の項目(有心之心、無心之心)を紹介しながら、読み解いて行くことにしましょう。
- 本心妄信
本心妄心と申す事の候。
本心と申すは一所に留まらず、全身全体に延びひろごりたる心にて候。妄心は何ぞ思ひつめて一所に固り候心にて、本心が一所に固り集りて、妄心と申すものに成り申し候。本心は失ひ候と、所々の用が欠ける程に、失はぬ様にするが専一なり。
たとへば本心は水の如く一所に留らず。妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗はれ不レ申候。氷を解かして水と為し、何処へも流れるやうにして手足をも何をも洗ふべし。
心一所に固り一事留り候へば、氷固まりて自由に使はれ申さず、氷にて手足の洗はれぬ如くにて候。心を溶かして総身へ水の延びるやうに用ゐ、其所に遣りたきまゝに遣りて使ひ候。是れを本心と申し候。
【出典】池田諭(1975)『不動智神妙録』, p.61. - 有心之心、無心之心
有心之心、無心之心と申す事の候。
有心の心と申すは、妄心と同事にて、有心とはあるこゝろと読む文字にて何事にても一方へ思ひ詰る所なり。心に思ふ事ありて分別思案が生ずる程に、有心の心と申し候。
無心の心と申すは、右の本心と同事にて、固り定りたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身に延び広ごりて、全体に行き渡る心を無心と申す也。
どつこにも置かぬ心なり。石か木かのやうにてはなし。留る所なきを無心と申す也。留まれば心に物があり、留まる所なければ、心に何もなし。心に何もなきを無心の心と申し、又は、無心無念とも申し候。
此無心が心に能くなりぬれば、一事に止らず、一事に欠かず、常に水の湛えたるやうにして、此身に在りて、用の向ふ時出て叶ふなり。
一所に定り留りたる心は、自由に働かぬなり。車の輪も堅からぬにより廻るなり。一所につまりたれば廻るまじきなり。心も一時に定れば働かぬものなり。
心中に何ぞ思ふ事あれば、人の云ふ事をも聞きながら聞ざるなり、思ふ事に心が止るゆゑなり。
心が其思う事に在りて、一方へかたより、一方へかたよれば、物を聞けども聞こえず、見れども見えざるなり。是れ心に物ある故なり。あるとは、思ふ事があるなり。此有る物を去りぬれば、心無心にして、唯用の時ばかり働きて、其用に当る。
此の心にある物を去らんと思ふ心が、又心中に有る物になる。思はざれば、独り去りて自ら無心となるなり。
常に心にかくすれば、何時となく、後は独り其位へ行くなり。急にやらんとすれば行かぬものなり。
古歌に、「思はしと思ふも物を思ふなり、思はじとだに思はしやきみ」
【出典】池田諭(1975)『不動智神妙録』, p.62.-p.66.【読み解き】
ここでは、妄信と有心が同じ事、本心と無心が同じ事である事を説明しています。
分別も思案も何も無き時の心を、無心(本心)と言っている所が言わんとする所であると思います。
人から何かを聞く時も、何か思う事があれば、真意を聞き取れない。また、見ていても、自分がサングラスをかけるように色をつけて見れば、本来の物を見る事ができなくなる。と何度も何度も語り掛けます。
私が「瀉瓶」(参照)を引き合いに出し、自分の経験や知識の詰まった、満タンのコップを差し出しても、人が注いでくれようとする物を、つぎ足す事も出来ないし、ましてや、自分の物にできないと、説明することと同じ事だと思っています。
私も含めて、現在の教育の弊害の部分でもあろうかと、常日頃思っています。
【参照】[出典]『大辞林 第三版』三省堂.
瓶びんの水を他の瓶にうつしかえる意〕 仏教の奥義を師から弟子にもれなく伝えること。写瓶相承。
【参考文献】 ・池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.
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