「武道家」と「仏教」「禅」との関係を探る! |
正保二年五月十二日に、寺尾孫(之)允(信正)に宛てた、新免武蔵(守)玄信(宮本武蔵)が残した手紙に「独行道」なるものがあり、その中の一行に、「仏神は尊し、仏神を頼まず」の言葉があります。また、有名な「五輪書」の序の巻には、「仏法儒道の古語をもからず」と言いい、「仏教」「禅」との関係を完全に否定しています。
『宮本武蔵 五輪書』(神子侃訳)によると、[この金峰山の中腹に霊源寺がある。寺の奥にある洞窟を霊源洞といい、石体四面の観音をまつっている。岩戸観音という。武蔵が参籠して『五輪書』を書いたのはここである。]とし、如何にも武蔵がこの地で座禅を組み、禅の修行を行なったと推測する向きがいてもおかしくない状況であるとは思えます。
推測なのか、事実なのか計り知る事はできませんが、『禅の本』(学習研究社)では、19ページに[禅と武道]と題し[・・・禅門を叩いた。その代表は宮本武蔵・・・春山和尚に参じた。大悟の後は常に丸腰であった。]との記載もあります。
吉川英治の小説が、澤庵宗彭(沢庵和尚)と宮本武蔵を結び付け、武芸者と禅とを結び付けたものだと思います。私たちが知っている武蔵は、吉川文学が生んだ虚像かも知れません。
たとえ史実とは違っていても、また、武蔵が自ら述べたとしても、全く仏法と無関係だったとは、言い難いのではないでしょうか。
当時の日本人、特に武士社会と仏教とは深い絆があったことは、歴史的な建造物や書物を見ても明らかではないでしょうか。
好むと好まざるとに関わらず、精神的な基盤に、仏教は存在していたのではないかと思うのです。
同じ武芸者として、 不動智神妙録でも紹介した柳生宗矩に至っては、正に澤庵宗彭(沢庵和尚)との深い関りが、精神的な基盤となったと思います。そして、剣の操法としての術から、道へと昇華したのでしょう。
そこに、生死がある限り、自らを深く知るための「禅」に惹かれるのは至極当然だと理解しています。
とてもとても、畏れ多くて、比べられるものではありませんが、私も若いころから「禅」に興味があり、それなりに、座禅に勤しんだ頃がありました。
まだ高校生の頃ですが、高野山に庵(写真参照)を借りて一か月、閉じ込められました、いや、受験のために、勉強の機会を与えられた経験があります。
親は勉強のためと思
朝から晩まで、空手三昧の生活をしました。と言っても、夜になると付近は真っ暗闇、トイレにも怖くていけませんでした。
今では夢か現実か、定かで無くなっていますが、ある夜、天井に空いた穴を見ていると、蛾が一匹でてきたのです。手作りのトンファーで、叩き落したのですが、次々とその穴から蛾が飛び出してきて、部屋中蛾だらけになり、部屋中を暴れまくった夜もありました。
またある夜は、障子がパタンパタンと音を立て、影を見るとバッタのようです。どんどん数が増えて、障子の上の方まで真っ黒になりました。もう、心臓が止まるかと思うほどの恐怖を覚えたものです。
今考えると、一人で山の中にいる恐怖心が、そんな幻影を見せたのかも知れません。
もちろん、逃げて帰る分けにも行かないので、何とか一か月が過ぎ、家族が迎えに来てくれました。
勉強の成果は、全く上がりませんでしたが、帰る時には大きな杉の木に丸くえぐれた跡がつき、拳の皮膚は真っ白になっていました。瓦が20枚簡単に粉々になった事を覚えています。
いくら若くても、一日中体を動かしている分けにはいかないので、練習の合間と、夜には座禅をしました。ただし、場所は真言宗の本拠地、高野山ではあるのですが、座禅の仕方も解りません。ただ、結跏趺坐(けっかふざ)して、座禅の真似事をしたに過ぎません。
それでも、高野山という土地柄と、真似事の座禅をとおして、知らない間に「禅」に惹かれていったのかも知れません。
残念ながら、理屈っぽい私が仏教を信じるまでには至っていません。
それから、何度となく「禅」に触れる縁があり、座禅儀を知り、ほんの少しですが、本格的に「座禅」を組んだ事を懐かしく思い出します。
そんな経験から、自然に空手を武道として、考えるようになり、今も道として「空手」を実践しています。
次回には、「禅」というものを、少し掘り下げて、紹介したいと思います。
【参考文献】
・神子侃(1963-1977)『宮本武蔵 五輪書』 徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
・太田雅男・大森崇・小向正司・高木俊雄(1992) 『禅の本』株式会社学習研究社.
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