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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【5】 | 髓心
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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【5】

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 今日の一文字は『仏』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 来世 仏道

 相変わらず、猛暑が続いています。40年程前と比べると5度ほど高くなっているらしいです。

 もしも、体温が5度上がると、と考えると、凄まじい環境の変化だと思います。

 体温と比べるな! と、言われそうですが、比べたくもなる毎日です。

 なんだか夜の間に、一雨あったのでしょうか、地面が濡れています。
 
 さあ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第四段 〔原文〕
後の世の事、心にわすれず、仏の道うとからぬ、こころにくし。
 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみました。

 『来世の事を考えて、仏の教えを煙たからずにいる人こそ、奥ゆかしい人である。』

 

『来世』

 近頃は、死んだら何もないと思っています。個人的にですが。

 「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

 と、辞世の句を残した、豊臣秀吉。

 これは、永遠のテーマであり、これからも色々な思想家や哲学者が研究していく事でしょう。

 現実の世の中を、夢の世界とみる気持ちが、分からないでもないです。そんな風に思いたい時もあるのが、人生なのでしょう。

 輪廻転生と言う考えも、来世と考えるのも、今現在のこの世にいる人の、熟慮の末の救いの方法だと思っています。

 もしも、ですが、来世があるとしたら、どうしますか。

 色々考えますよね。

 一つは、現在の世の中、現世が始まりで、来世が二番目か、もしくは来世は永遠に続く。でなければ、現世の事は全く記憶がなく来世に生きるとしたら、これは来世は無いに等しいと言えると思います。

 なぜなら、来世から見ると現世は、前世と言う事になり、繋がりがあるとしたら、前世の記憶はどこに消えたのでしょう。

 それは、夢のまた夢も、記憶によってのみ現実化するのだと思うからです。

 仮に来世があって、現世の記憶を継承しながら、来世に行くとしたら、あだやおろそかに、って古すぎましたか、とりあえず、現世の生き方を見直す必要があります。

 こう考える事で、現世の生き方に、警鐘を鳴らしたのではないでしょうか。

 数学的な考え方では、次元というものもありますが、これも人間が認識できる範囲を超えています。

 案外人間は、解らない事を解らないまま、信じると言う、凄い能力を持っていると思います。でなければ、気が狂ってしまうのでしょう。

 結構生きてきましたが、世の中は、解らない事だらけです。それでも、生きていけるのは、合点がいかない、釈然としない、悶々とした気持ちを整理する能力を備えているのだと思っています。整理できないまでも、そのままにしておけるのが人間の能力かも知れません。

 ただ、几帳面な人が、腑に落ちずに、その気持ちを顕すために、文学や芸術、あるいは宗教や科学によって、湧き上がる気持ちを具現化しようとしているのかも知れません。

 

『仏道』

 吉田兼好は、その時期は定かではありませんが、30歳前後に出家したとされています。ですから、言わばお坊さんであり、兼好法師と呼ばれる所以でもある分けです。

 当然、お坊さんですから、「仏道」を勧めるのは当然と言えば当然の事です。

 しかし、本名卜部うらべ兼好と言えば、卜部うらべ家は元々神職の家柄とされていますから、思い切った事をしたものだと思います。

 当時からお坊さんにも色々あって、前段にあった、清少納言の言葉を借りて、「法師を羨ましく思わない」とこけ下ろす言葉もあります。

 私も形骸化した葬式仏教や、仏教に由来する教化と言う価値観にもあまり興味が湧いてきません。

 ただ、仏陀の残したとされる経典の一部や座禅というものには、惹かれる物があります。

 座禅の場合は、禅宗で不立文字と言われるように、書いたもので伝えるのではなく、心から心へ直接伝えるとされていますが、私は、自ら体験する方法が座禅と考えています。

 では、惹かれる経典の一部を紹介して見ましょう。

 一番有名な所では、やはり『般若心経』でしょう。

 私は、次の『般若心経』を唱えています。

 『観自在菩薩かんじざいぼさ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五薀皆空しょうけんごうんかいくう 度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし 色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし 是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不減ふぞうふげん 是故空中ぜこくうちゅう 無色むしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき 無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんに 無色声香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界むげんかい 乃至無意識界ないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明尽やくむむみょうじん 乃至無老死ないしむろうし 亦無老死尽やくむろうしじん 無苦集滅道むくしゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩【土+垂】ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 心無【四の下に圭】礙しんむけげ 無【土+垂】礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切【眞+頁】倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 究竟涅槃くきょうねはん 三世諸仏さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神咒ぜだいじんしゅ 是大明咒ぜだいみょうしゅ 是無上咒ぜむじょうしゅ 是無等等咒ぜむとうどうしゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 真実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多咒こせつはんにゃはらみたしゅ 即説咒曰そくせつしゅわつ
羯諦羯諦ぎゃてぎゃて 波羅羯諦はらぎゃて 波羅僧羯諦はらそうぎゃて 菩提娑婆賀ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう

 『般若心経』は、声に出して唱えると良いと思います。意味など解る必要もないでしょう。

 といっても、漢字ばかり並べられては、現在の日本人にはあまりにも、馴染みがありません。また、意味などと言うのも語弊があります。

 で、簡単に内容を解読してみました。仏陀が一番弟子の舎利子に呼びかけている場面と思われます。ちなみに、舎利子は、サンスクリット語ではSāriputra(Sの文字の上に´が入ります。)、シャリプトラと発音します。

 『我々が感じ見る事の出来るものは空である。それは生じる事も滅する事もない。

 次に、この事を具体的な言葉で説明をしていますが、面白い表現をしているので、理解するのに手間取ります。

 目に映る世界や心の認識する世界もない、また、知識や煩悩も老も死もないといいながら、これが無くなる事はないと言っています。

 これは、初めから無いのだから、無くなることもないと言う、表現の仕方です。

 この目に見える世界を、「眼・耳・鼻・舌・身・意」、「色・声・香・味・触」と言う、色を見る、声を聞く、香を嗅ぐ、舌で味わう、触って感じ認識する人間が普通に持っている機能を上げて、「無」と言っています。

 要するに、初めから無い事に色々感じ心を迷わす必要がない、と言う事です。

 しかし、普通に暮らしていると、この事が分からない。

 悟りを開くと、この真実が見える。』

 ごくごく簡単に内容を書いて見ましたが、もともとサンスクリット語で書かれてある物を中国語で翻訳し、日本に伝わっていますから、意味よりも音が大切なのかも分かりません。

 もちろん、この簡単な解説も、私が解説している事ですから、鵜呑みにしないで、自分で解読してみてください。

 きっと、何も無いんだな、と言う事が判るのかも知れません。これを智慧と呼んでいます。

 折角書道を少しかじる事になったので、機会があれば写経なども良いかも知れません。

 何かに集中して、没頭する事に意味を感じる歳なのかも知れません。

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