文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【244】

 今日の文字は『詰問きつもん』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百四十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 詰問

 

☆『韓国はなぜ「パートナー」との関係を容易に反故にできるのか』
(NEWSポストセブン 2019/03/26 07:00)

 「徴用工、慰安婦、竹島……日本と韓国の両政府間で、「完全かつ最終的に」(1965年日韓請求権協定)、「最終的かつ不可逆的に」(2015年日韓慰安婦合意)解決したはずの約束や合意が守られない現実を前に、多くの日本人は困惑している。ソウル在住のジャーナリスト・藤原修平氏は、その背景に「同じ言葉を使っていても、日韓で意味が違うという実情がある」と指摘する。
—–中略—–
 日韓のあいだの意思疎通がうまくいっていないということは、これまでも語られてきた。たとえば、韓国通として知られる女優の黒田福美氏は雑誌のインタビューに答え、「韓国には日本の怒りが伝わっていない」と指摘している。日本政府は韓国に抗議するときによく「遺憾」を口にするが、韓国語の「遺憾(ユガム)」は日本語よりはるかに軽いニュアンスで、韓国人は日本人の怒りの程度を理解できないという。

 だが、長年ソウルに暮らす私からすれば、日韓の間にはもっと深刻な「意味の違う共通語」がある。「パートナー」あるいは「共同」といった言葉だ。
—–中略—–
 日韓パートナーシップ宣言から約10年後の2008年頃、ソウル在住の日本人駐在員からこんな話を聞いたことがある。

「取引先の韓国企業に行ったら、『何しに来たんだ』という対応でした。自分の会社が成長すれば態度をくるりと変えて、『もうお宅の会社は用無しだよ』と言わんばかりでした」
—–中略—–
 かつてパートナーだった日本は、成長した韓国にはもう要らない。韓国メディアは「日本とは親しくなるべきだ」とする主張においてさえ、植民地支配の歴史もあって「気に入らない隣国だ」と前置きしている(「中央日報」3月15日付コラム)。

 そうなってしまった以上、1965年の請求権協定も、今の韓国政府には大きな意味を持たなくなったと考えるべきだ。日本がかつてのように「共存共栄をしていこう」と外交ルートを通じていくら声高に訴えたところで、韓国政府が聴く耳など持つはずもないのだ。

 これからの日本は、「話が通じない隣国」として韓国と接していくべきである。」

 最近、アメリカのドラマを見ています。光テレビのビデオのような機能で、過去のアメリカドラマ「The Good Wife」ですが、最近日本でも常盤貴子さんが主演で「グッドワイフ」が放送されていました。

 日本の物とは、まったくと言っていいほどスケールが違うのですが、アメリカの人種やマイノリティに対する考え方がよく解るドラマです。

 何より、物の考え方が、なるほどと思えるくらい、私などの考え方とは違う事に気が付きました。

 この記事を読んで、「そういう事か」と合点が行きました。同じ国の人間でも、隣に住んでいる人とも、同意できるような事が少なくなっていると思います。

 まして、国が違うのですから、当然と言えば当然ですが、極端に違う場合と、歩み寄れる場合との差があると思います。

 過去には、中国や朝鮮半島の人から、学ぶ事が多かった日本ですが、そろそろ、付き合い方を変えて行く必要があるのかも知れません。 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百四十三段 〔原文〕

 八つになりし年、父に問ひてはく、「佛はいかなるものにか候らん」といふ。父が云はく、「佛には人のなりたるなり」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらん」と。父また、「佛のをしへによりてなるなり」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける」といふとき、父、「空よりや降りけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。

 「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と諸人しょにんにかたりて興じき。

 

『現代文』

『八歳になった時、父に質問した。「仏はどんなものか、教えてください」と言うと、父は「仏は人がなったのだ」と言いました。また尋ねて「人はどのようにして仏になれるのですか」と言いました。すると父が「仏の教えに従ってなったのだ」と答えました。また問いました。「教えてくれた仏は、誰が教えたのですか」と。また答えて「それもまた先に仏になったものに教わってなったのだ」と言いました。また問うて「その教え始めた一番目の仏は、どんな仏なのですか」と言った時、父は「空から降りて来たのか、土から湧き出たのかな」と言って笑いました。

 「問い詰められて、答えられなかった」と、世間の人々に話して面白がった。』

 

 

『詰問』

 子供の質問は、時に大人にとっては、すでに矛盾のまましまってある箱を開けるようなものです。

 聞かれた方も解らないのですが、聞いているのが子供の場合、何とか答えようと胡麻化してしまおうとします。

 この相手が大人の場合は、いい加減な事を言うと、墓穴を掘る事になりますから、知らない事は、知らないと答えられるのですが。

 「通説では、卜部氏は古代より卜占ぼくせんを司り神祇官じんぎかんを出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社の神職であった。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 兼好法師の父は、通説ですから、実際のところはわかりませんが、一応神職とすれば、当時のエリートの家系だと思います。

 であれば、なぜ、仏についての由来を語って聞かせる事ができなかったのでしょうか。

 もし、私に同じ質問を、小学校の一年生か二年生の子が聞けば、次のように答えると思います。

 しかし、まず「仏」と言う事は、現在では「死んだ人」の事を言いますので、ここで云う「仏」と云うのは、「仏教の信仰の対象」になるためにはどうすれば良いのかを、尋ねたと理解する事にします。

 であれば、第一の質問に対して「仏になるための修行をした人」と答え、「どのような修行ですか」と聞かれた時に、お釈迦様の話をすると思います。そして、お釈迦様が仏になるための方法を遺しているので、それを修行すれば、仏になる事ができる、と答えます。

 当時も仏教には宗派があり、その方法は大乗仏教と上座部仏教(小乗仏教)に分かれますが、いずれも成仏するための道には違いありません。

 

 この段を以て、『徒然草』も最終回です。毎日一つの段を読み解いてきましたので、244日かかった事になります。

 初めは、抜粋して書こうと思ったのですが、いつのまにか、全部の段を読む事になりました。『徒然草』の初めは、

 もともと「本を読まない人」です。いや「読めなかった」と言った方が正しいでしょう。しかも、現代文ではないので、四苦八苦しながらの毎日でした。

 もし、現在のようにインターネットが発達していなければ、毎日図書館通いをしなければ、とても読破する事など出来なかったと思います。

 それにしても、序文にあったように、『つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。』と書かれてありますから、心に浮かんだ、たわいもない事、つまらない事も含めて書いたのでしょう。

 そのつまらない事も、初めは「なんで?」という気持ちが先に立ち、兼好法師の意図を汲み取る事が出来ませんでした。

 その度に、序文を読み返し、「そうだ、つまらない事」も書き綴っているのだと思う事にしました。

 しかし、ただつまらない事だと思っていた事も、兼好法師のメモ書きや覚書だと納得する事にすると、気になる事も無くなりました。

 それと、この『徒然草』を

 お疲れさまでした。明日からは、また違う所に目を向けて、興味深く探って行きたいと思っています。引き続き応援よろしくお願いします。