今日の一文字は『愁』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第五段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
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出家
愁
昨夜は、結構雨が降っていたようで、夜中に雨音が聞こえました。
少し、身体が慣れて来たのか、朝方窓を開けると、涼しい風を感じます。それでも、日中になると相変わらずの暑さです。
今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第五段 〔原文〕
不幸に愁にしづめる人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで、有るかなきかに門さしこめて、待つこともなく明し暮したる、さるかたにあらまほし。
顕基中納言の言ひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。
『現代文』
まず、我流で現代文にしてみましょう。
『不幸な目に遭遇して心がしずみ、頭を丸めて出家するなど、浅はかな考えではなく、深く思慮して、居るのか居ないのかも解らない様子で門を閉ざして、別に世の中に対する期待もせず暮らしている。そんな日々を送る方が好ましい。
顕基中納言(源顕基)が言っている。罪人が見る月を罪なくして見たい。そんな風に思われたい。』
『出家』
出家するにも色々な理由があると思います。ここで書かれてあるように、世の中を憂いて、世の中の騒々しさから逃げるように出家する人もいたと、思います。
兼好の言うように、浅はかに短絡的な動機の場合もあったでしょう。
仏陀も若くして出家の道を選んでいます。
今では「出家」と言う言葉自体を知らない人もいるかも知れません。ようするに、家を出て仏道の生活にはいることを言いますが、社会生活を止めて、お坊さんになる事です。
これを、現実世界からの逃避とみることも出来ますし、仏道を極めようとその道に踏み込むと考える事もできます。
きっと、顕基中納言(源顕基)が言っている。「罪人が見る月を罪なくして見たい。」と言うのは、そこなら誰にも煩わされずに、静かに人生を全うできると考えたのでしょう。
兼好は、30歳前後で出家遁世した人ですから、社会生活から逃れて生活する事には、肯定する言葉が出てきます。
にも拘らず、その遁世の生活は、「徒然草」に見るように、静かに人生を全うしているとは、俄かには思えません。
世の中の煩わしい事、男女の想い、文化に対しても造詣が深く、とても世の中を捨てた、世捨て人とも思えません。
私は、今ほとんど人との接触はありませんが、世を捨てたとも、社会生活から逃れているとも思いません。いつも言うように、人間は社会的な動物でなければなりません。なぜなら、ホモサピエンス を祖先に持つからだと言ってもよいでしょう。
社会的な生活ができるようになった事が、現在の人間を作ったと考えています。
で、なければ、ネアンデルタール人 を差し置いて、ホモサピエンス が残ったとも思えません。
もちろん、進化は、まだ終わっていないかも知れません。次の『人』は、社会的な動物ではないのかも知れません。
『愁』
「愁」は、愁うれ うと読みます。憂うとも書きます。ようするに、思い悩んだり、心配することですね。
「徒然草」の第一段に、『この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かンめれ。』と書かれていますが、私は、この『欲』よりも、『愁』の方が、人生では多いのではないかと思っています。
考え方によれば、『欲』が『愁』を生むとも言えます。
生まれてから間もなく、人は親の愛情を一身に受けようと、「愁い」ます。集団生活をするようになると、人と社会的な交わりを余儀なくされます。そして、その人間関係に「愁い」ます。
そして、人を好きになって「愁い」。人から嫌われて「愁い」。人との交わりが深くなればなるほど、「愁い」の深さも増していきます。
人との繋がりだけでなく、知識を得ようと「愁い」。評価を期待して「愁い」。
子供が生まれれば、子供の事を「愁い」。
果ては、将来を「愁い」。世の中を「愁い」。自分が亡くなった後の事まで「愁う」ことになります。
だからと言って、出家しても、遁世しても、その思いが無くなる分けではないと、思っています。
人間に生まれ、人間として人生を送る限り、避けては通れない道なのですから。
そこから、逃げ出すより、「愁い」を楽しみに変える事が出来るのも、人間の智慧だと思います。
先日から『ラストチャンス 再生請負人』 と言う番組が始まりました。主演は仲村トオルさんです。この中で、 「人生は七味唐辛子」 と占い師(ミッキー・カーチスさん)から言われる場面がありました。面白い言葉だと思いました。
「怨うら み・辛つら み・妬ねた み・嫉そね み・嫌味いやみ ・僻ひが み・やっかみ」 の七つの事を言うそうです。
相手からこの思いをされるのは、相手の問題ですが、もし自分がこういう気持ちを持っても、決して人生が良くなるとは思えません。
私の場合は、こういう気持ちを抱いた記憶は、幸運にもありません。親の育て方が影響していると思います。
私のは母親は、「上向いてもキリが無い、下向いてもキリが無い」 と口癖のように言っていました。要するに現状に満足して不平不満に思わない、「足るを知る」 事だと思っています。
ただ、私の母は、お嬢さん育ちで、晩年までは裕福な生活を送っていました。残念ながら晩年はそうでもなかったので、不平不満だらけだったのを、可哀そうだと思った事もありました。
「上向いてもキリが無い、下向いてもキリが無い」も、自分の限りない欲を自省するための方便だったかも知れません。
こんな「愁い」を、「馬耳東風ばじとうふう 」と受け流せるのも、智慧と言うものだと考えています。