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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【7】

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 今日の一文字は『子』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第六段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文 子孫 少子化

 今は晴れていますが、午後から怪しい天気予報です。台風がまた上陸すると言うニュースが昨日から流れています。
 まだ先日の豪雨で回復していない地域には、雨は遠慮してほしいものです。それにしても、台風の進路の中心が大阪になっていますが、どうなんでしょう。

 伊勢の方に上陸しそうですが、いつもの台風と真逆の進路です。やはり地球環境の問題でしょうか。
 
 今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第六段 〔原文〕

わが身のやんごとなからんにも、まして数ならざらんにも、子といふ物なくてありなん。

前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、みな族絶えん事をねがひ給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるはわろき事なり」とぞ、世継の翁の物語にはいへる。聖徳太子の、御墓をかねて築かせ給ひける時も、「ここを切れ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『自分の身が最上級の高貴あるいは家柄が高くとも、またとるに足らない身分の者でも、子供というものは無い方が良い。

 前中書王・兼明親王も、九条太政大臣・藤原信長も、みな子孫が絶えることを願った。染殿大臣(藤原良房)も、「子孫はいらっしゃらない方が良い。子孫が落ちぶれるのは、感心できない。」と、世継の翁の物語といわれる『大鏡』の中で言っている。

 聖徳太子が生前に墓を作る時に「ここを切れ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」すなわち、子孫はないと思っていると言われたとか伝えられている』

 

『子孫』

 これは、明らかに、兼好の捉え方に他ならないと思います。「みな族絶えん事をねがひ給へり」とは、誰も言っていないと思います。

 誰でも、子孫が落ちぶれたり、劣ったりする事には心を悩ませる事でしょう。だからと言って、「族絶えんことを願う」分けではないでしょう。

 「世継の翁の物語」にしても、まるでSF小説ではないのでしょうか。

 190歳の架空の老人が180歳の夏山繁樹(物語の登場人物)と妻、そして若侍をくわえた3人を相手に話す作り話と思われます。

 この事を受けて、「族絶えんことを願う」と断定するのは、あまりにも早計ではないでしょうか。世代継承の問題は、今も昔も難しいと考えるのが妥当で、だからと言って、子供を不要な者として扱うのは、捉え方が短絡的過ぎると思います。

 「児孫のために美田を買わず」あるいは、「子孫に美田を残さず」と言ったとされる西郷隆盛の言葉も、取り方によって全く反対の言葉に受け取ってしまいます。

 宮本武蔵の独行道をこのブログに載せていますが、その中の一節に

「一 末々代物奈留古き道具所持せ寸」

 と、いうものがあります。

 私が読み解いたのは、
【末々代物なる古き道具所持せず】
『子孫に残す価値ある骨董品を所持せず』

 が、これは、財宝を残してもその人の為にはならないと言う、親心から出た言葉であると思っています。

 故事や名言の類は、その人の考え方により様々な解釈をしてしまいます。

 兼好に子供がいたかどうか定かではありませんが、もしいたとしたら、子供に手を焼いていたのかも知れません。しかし、子供がいたと言う事もはっきりしていません。

 世捨て人や遁世というものを否定する分けではありませんが、肯定する気持ちもありません。しかし、このような考え方を、さも正しいかのように吹聴するは、あまりにも無責任極まりないと思います。

 兼好は、犯罪者でもありませんが、この言葉を聞いて思い起こすのは、「オウム真理教」の事です。

 最近「オウム真理教で死刑判決を受けた人達」の死刑が執行されたそうです。この「オウム真理教」は、「ポア」と言う言葉を使って殺人をしました。

 これも仏教の言葉の解釈の違いだと思っています。もともと、「意識を高い次元に移行させる」と言ったチベットの宗教用語を自分たちの都合の良いように解釈したのでしょう。

 聖徳太子の墓については、諸説紛々として分かりませんが、墓相によって子孫が滅ぼされたとか、子孫を根絶やしにするよう細工をしたとか、何だか取ってつけたような話にしか思えません。

 縄文式土器の中で、人類の再生を信じて作ったとされる、土偶が幾つも発見されています。

 この時代は、個人というより人類として、木や花や他の動物、生物と同じように人類の継承を考えていた事が伺われます。

 現代の人達も、個人の利益に固執するのではなく、人類の未来を忘れてはならないのだと思います。

 

『少子化』

 今、日本は少子化と言われて、政治が主導で人口を増やそうとしています。

 兼好の言葉とは、真逆です。兼好の「子といふ物なくてありなん。」と言うのはさておいて、本当に人口は増えると良いのでしょうか。

 生産者の数を増やして、税金を集め、国を豊かにしょう。何か、戦時中の「富国強兵・産めよ増やせ」を思い出してしまいます。

 誰のための経済成長なのでしょう。右肩上がりの経済成長に終焉が来ても、まだ右肩上がりを熱望しているのは、あまりにも短絡的に思えます。

 人間と言う種は、やはり動物ですから自然の摂理に従っているのではないかと思っています。

 世界的に考えると、現在の人口増加をどこかで歯止めしないといけない状況にあります。日本だけが人口を増加する必要は見当たりません。それは、エゴと言うものでしょう。

 日本は、自然の摂理にしたがって、少子化になったとも考えられます。

 これも、将来を考えた時、現実の生活を考えた時、とても子供を育てる余裕がもてないからかも知れません。
 
 結婚する人が少なくなり、子供を産む人も少なくなり、また生みたくても生めない人も多くいます。

 草食系と言われる若者が増えたのも、Xジェンダーと言われる人達が市民権を得る事も、私は人類の流れだと思っています。

 人口が少なくなって、生産者の数が減っても、税金の総額が減ったとしても、それに対応できる政治をするのが、政治家の使命ではないのでしょうか。

 いたずらに人口を増やして、格差のある社会を作り、奴隷のように生産者を扱うつもりでしょうか。疑問に感じています。

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