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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【19】

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 今日の一文字は『無』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十八段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 関東地方は昨夜から、台風13号が時速10Kmで猛威を奮っています。息子一家と娘一家が関東に住んでいますので、大丈夫でしょうか。

 無駄だと思う税金の使い方が、近年目立つようになりました。人間の命が大切であると標榜する割には、自然災害に手立てを打つのは、後手に回っています。少しは「備えあれば憂いなし」と、備えに税金を投入するべきと思います。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第十八段 〔原文〕

人はおのれをつづまやかにし、おごりりを退けてたからを持たず、世をむさぼらざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるはまれなり。

唐土もろこし許由きょゆうと言ひつる人は、さらに身にしたがへる貯へもなくて、水をも手にして捧げて飲みけるを見て、なりびさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。

また手にむすびてぞ水も飲みける。いかばかり心のうち涼しかりけん。孫晨そんしん冬月ふゆのつきふすまなくて、藁一束ひとつかありけるを、夕には是に臥し、あしたには収めけり。

もろこしの人は、これをいみじと思へばこそ、記しとどめて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『人は自分自身つつましくして、奢りを退け財産を持たず、欲をむさぼらない方が、素晴らしい。昔から、賢い人が裕福であることはまれである。

中国に許由きょゆうといった人は、少しも身についたたくわえもなく、水を手ですくって飲んでいるのを見て、瓢箪ひょうたんというものを人が与えたところ、ある時、木の枝にかけていたが、風に吹かれて音がするのを、うるさいと言って捨てた。

また以前のように手で水をすくって飲んでいる。どれほどか心が清々しかったであろう。

孫晨そんしんは冬の時期に夜具がなくて、藁が一束だけあったのを、夜になるとこれに寝て、朝になると片づけた。

中国の人は、これを立派と思えばこそ、書きとどめて世の中に伝えただろうが、これらの人を、日本では、語り伝えられもしないだろう。』

 

『財』

 『これらの人は、語りも伝ふべからず。』兼好は、当時の日本では、清貧に対して理解がないと書いていますが、果たしてそうなのでしょうか。

 また、語り伝えられないものをどうして、兼好法師は目にする事ができたのでしょう。

 少し兼好の生きた時代を、探って見ましょう。兼好は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて歌人・随筆家・遁世者として後世に名を残しています。

 鎌倉時代と言うと、直ぐに浮かぶのは武士の出現でしょう。それまで貴族社会であったものが、武士にとってかわられた時代だと思います。

 しかし貴族とは違い、武士は質素で農民の暮らしに近かったとの記述を見つけました。(出典:https://www.kamakura-jidai.com/)

 一方兼好法師はと言うと、下級公家の出と言いますし、出家しても食べて行ける環境だったと推測します。

 この時代の農民は『口減らし』のために、子供を殺したりしていた時代ですから、それに比べれば、随分優雅な生活をしていたと思われます。

 『これらの人は、語りも伝ふべからず。』と言う言葉を、兼好がもし裕福な階級を見て言うのであれば、警鐘ともとれますし、貧困の農民に向いて言うのであれば、そんな余裕はないので、清貧に惹かれるなんてとんでもない事になると思います。

 さて、どちらに向けての言葉なのでしょう。兼好法師の時代、鎌倉時代の末期には、現在の格差と比べようもないくらいの、貧困と贅沢の格差があったのではないでしょうか。

 しかし、兼好法師は、遁世とは言え、赤貧洗うような生活では無かったように思えます。時には旅も楽しんでいる様子がありますし、和歌や思想を研究できる環境にあったのですから。

 それはさておいても、『財』と言う問題は、兼好法師の時代よりももっと古くから問題にされています。前に取り上げた『論語』にも『独行道』でも、『財』を毛嫌いしている感じが伝わってきます。

 現在は資本主義社会の終焉と感じてはいますが、やはり価値観は、『財力』にあるのでしょう。

 『財力』がなければ、何も始まらない時代である事は、良い悪いではなく、必要欠くべからざる要因になっています。

 今、テレビ番組で『健康で文化的な最低限度の生活』と言うのをやっています。内容を見ていると、日本も随分裕福になった、と思います。

 昔、父が「民生委員」をやっていましたが、当時民生にかかっている人の生活は、もっと悲惨なものだったと、記憶しています。

 もちろん当時でも悪知恵を働かせて、胡麻化してこの制度を利用する人もいました。このテレビも本当に困っている人から見れば甘いと思うかも知れません。

 しかし、人間が社会生活を営む限り、こういう制度は必要だと思います。もちろん、この制度を悪用している人もいると思います。本当に社会を構成する人達の中には、制度や法律を悪用する事に長けている人がいるのは、今も昔もそう変わるものではないかも知れません。

 やはり、組織の構成が2:6:2 と言われる法則のとおりなのでしょう。

 私は「財」に罪があるのではなく、毛嫌いする必要もないと思います。しかし、この「財」を元に事実を捻じ曲げるような事をしかねないのが、人間です。
 それは、「財」を持つ人の多くの人が、「財」を持たない人と『価値観』を共有していないからだと思っています。利益誘導が当たり前の事だと思っている人と、成果にスポットを当てて仕事をする人の差です。

 職人であれば、良い物を作ろうと思って仕事に手を抜かない人と、この程度で需要者を満足させられると思う人、そして、この程度で需要者を騙せると思う人との差が、公正に評価され財を得られるのであれば、問題ないのだと思うのですが、需要者はすべてに知識がある分けではありません。ですから簡単に騙されてしまいます。

 結果は、「この程度で需要者を騙せる」と思う人、すなわち利益を誘導できる人に「財」が集まってしまいます。「金が金を生む」と言う分けです。

 こんな社会から早く脱皮していかないと、社会全体の機能が果たせなくなるような気がします。

 兼好法師のように「財」に対する嫌悪感より、「財」を如何に活用できるかが人間の「智慧」だと思いますが、如何でしょう。 

 

『無』

 これは、全く私見ですが、人間の能力の発揮の仕方を考えています。

 人間には、読み書きそろばん、と言われるような能力がある事は、既に認識済の事だと思います。そのために、教育と言うシステムを使って、それぞれの能力を高めようとしています。

 そして、国民の教育のために、義務教育が定められています。

 その目的は、次のように書かれています。

『義務教育は、国民が共通に身に付けるべき公教育の基礎的部分を、だれもが等しく享受し得るように制度的に保障するものである』

 通常の知識や能力は、学ぶ事によって習得できるようになります。

 例えば、書道や空手道のように、ある程度までは、学び練習すれば、一応の成果を得る事が出来ます。

 しかし、世の中には、学んでも練習しても出来ないものがあります。人はそれを天分と言うかも知れません。

 私は、それを『無』だと思っています。

 『髓心』でも記述をしていますが、『無心の前の一心』です。なぜ、一心の次に起こる『無心』が必要なのかと言うと、『無』にこそ、誰もが持っている「全ての能力」が眠っていると思うのです。

 しかし、これは自分が心から望む事しか叶えてくれません。 本当に『財』が欲しいのであれば、『無』の『心』になれば、叶えてくれます。

 ここが難しいので、いわゆる『価値観』の問題が関わります。通常は人としてもとるような事を、願う事ができません。ですから、最近言われている、成功者、権力者に「サイコパス」が多いと言うのも合点の行くところです。

 人間として悖ると思わない人が『サイコパス』ですから、全く『価値観』に相違がありますから、躊躇も反省もしません。自分は正当な事をしていると、信じて疑いません。

 心から疑うことなく信じられる『価値観』が、もし『財』であれば、 あなたも「金持ち」になれるかも知れません。

 何の根拠もなく、自分は人とは違うのだと思えるか、思えないか。人から見ると滑稽ですが、その人にとっては、真実です。さて、あなたは、どちらでしょう。

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