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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【34】

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 今日の一文字は『知』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 知識 造詣

 

 大阪では、台風一過で、今日は晴天のようですが、時折強い風が吹いています。それでも今日は暑くなりそうです。

 またまた、台風は各地に傷跡を残していったようです。このブログを読んでくれている、皆さんの所は、大丈夫だったでしょうか。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第三十三段 〔原文〕

 今の内裏作り出されて、有職の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、すでに遷幸せんこうの日近くなりけるに、玄輝門院げんきもんいんの御覽じて、「閑院殿の櫛形の穴は、まろく、縁もなくてぞありし。」と仰せられける、いみじかりけり。

 これはようの入りて、木にて縁をしたりければ、誤りにて直されにけり。

【参照】
櫛形の穴:櫛形の窓(出典:学研全訳古語辞典 学研.)
櫛形:下部が水平で、上部が弧になった形。(出典:大辞林 三省堂.)

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『 現在の皇居を建造したとき、有識者に見せたが悪い所はないと言う事だった。すでに遷幸せんこう の日も近くなってから玄輝門院げんきもんいんがご覧になって、「閑院殿の櫛形の穴は、まろく、縁もなくてぞありし。」と、窓の枠は縁もなく丸かったと、仰った。これは大変である。

  確かに先のとがった切りこみがあり、木で縁もついていたので、これは誤りだと、作り直された。 』

【参照】

遷幸せんこう :
(1) 天皇が都を他の地に移すこと。また、新しい都へ天皇が移って行くこと。 「信西一両年が間に修造して-をなしたてまつる/平治 上」
(2)天皇・上皇が、他の場所に行くこと。遷御。
(出典:大辞林第三版 三省堂.)

★「いみじかりけり。」を、「素晴らしい」と訳している人もいますが、私は大変な失敗をやらかした。と捉えて、「これは大変だ」と訳してみました。

 

『知識』

 玄輝門院げんきもんいんと言うのは、後深草天皇の妃ですが、この方は、昔の様子を思い出して、言っただけの事だと思います。多分この方の記憶が正しかったのでしょう。

 昔、と言ってもそれほど昔ではない、私が子供の頃は、物知りの大人が多かったように思います。「亀の甲より年の劫」と言われる位ですから。年長者の体験や経験の大切さが物を言った時代でした。

 兼好の時代も、知識や経験は、自ら会得しないと習得する事が出来なかったと思います。知識と言っても、情報が今とは比較にならないほど少なかったと想像できます。

 ですから、経済格差も今よりもっとあったと思いますが、知識の格差も驚くほどあったと思います。これは、700年も遡らなくても、現在の義務教育が徹底されるまでは、当然の格差だったように思います。

 私が幼い頃でさえ、文盲もんもうの人がいたくらいですから、現在の日本では、識字率ほぼ100%と言った記述を見る事ができますが、それはとんでもないあやまりです。

 こんなブログを2000文字から4000文字程度、毎日のように書き綴っている私でも、新聞の隅々まで、コンピュータなしで読む事など出来ません。別に威張っている分けではありませんし、勉強の成績が悪かったのですから、当然と言えば当然です。

 それでも、私だけでは無いでしょう。新聞や書籍を、辞書なしで読める人、そんなに多くは無いと思います。と、思う事にして置きます。

 兼好のような文化人も少なく、まして昔のしきたりなどを知る人も少なかった時代だと推測されます。記録するにも読み書きができる人も一握りだったようです。ですから、玄輝門院げんきもんいんのような人は貴重な存在だったのでしょう。

 コンピュータが出現するまで、知識と言えば、誰かに学ぶか、書籍に頼るしかありませんでした。

 また、見聞を広げるといっても、私が学生の頃は、まだまだ外国は遠いものでした。時間的にも金銭的にも、一般には普及されていませんでした。

 それが、今ではどうでしょう。誰かに学ぶより、大人の人に聞くより、もっと情報が身近になりました。

 私は未だにガラケイと呼ばれる携帯を使っていますが、ほとんどの若者がスマートフォンを持っているのではないかと思います。この8年間のスマートフォンの普及率は飛躍的に伸びています。

 携帯電話と言うより、コンピュータと呼ぶにふさわしい情報を共有できる機器だと思います。

 私は一日中コンピュータがないと、会話も出来ない状態です。本当に、かなりの専門的知識も、容易に得られるようになりました。

 確かに情報過多の部分もあると思いますが、使い方によっては、図書館や本屋さんを横に置いているように便利なものです。

 特に、このブログなどを書く時には、必須の道具です。でなければ、一行書くのに数日かかるかも知れません。

 また、このブログはWORDPRESSと言うブログ作成の道具(ツール)を使っていますが、このプログラムも無料で使えますし、このWORDPRESSに入れて使えるプログラム(プラグイン)も多数あります。

 しかし、個人のコンピュータが普及する初期の頃からコンピュータに接する事が多いのですが、それでも、このWORDPRESSを使うにも、ある程度知識が必要です。ある程度と言っても、コンピュータのプログラムやホームページを作った事の無い人には、かなり、と言っても良い知識が必要になります。

 今回も、URLを入れるボックスの左横に「保護された通信」と表示させるために、結構苦労しました。SSL化と言うものです。

 日本空手道髓心会のホームページも全てのファイルの中身を検証して、URLの出だしを「http://」から「https://」と変更しました。結構な数のファイルがありましたので、全てのファイルを置き換えるのに手間取りました。
 
 ホームページの方は、書き換えるだけで、「保護された通信」にする事が出来たのですが、ブログの方は一筋縄では行きませんでした。

 後の処理は、専門的になりますので、このブログでは割愛させてもらいますが、何とか、「保護された通信」にする事ができ、ホッとし一日でした。 

 そんな時にも、今まででしたら、本屋さんに足を運び、知りたいところを本屋さんで覚えて、本屋さんを出てメモして、というような事を何度も繰り返すか、どうしても必要な時は、本を購入するなど、何冊の専門書を買った事でしょう。

 蛇足ですが、本屋さんに並んでいる本の、ページをメモするのはいけない事と思っています。本を開いてメモするのは窃盗罪になるかも知れません。くれぐれも、記憶して他の場所で記録するようにしてください。

 話を戻しましょう。今は、机に座りながら、数秒で知りたい事を検索する事ができます。もちろん、この検索能力は問われますが、慣れると面白いように、知りたい事を調べる事ができます。

 ただし、インターネットの世界は、正しい事ばかりが載っているのではないと、認識しておかないと、えらい目に遭います。

 それを承知でうまく利用すると、「亀の甲よりインターネット」になります。

 兼好の時代には想像も出来なかったでしょうね。兼好から700年も経ってから生まれた私も、今の情報の行き交う環境は、想像も出来ませんでした。

 学生の頃は、電卓が出来て日が浅くとても購入できる価格ではありませんでした。と言うより、あることさえ、知りませんでした。計算と言うと「そろばん」か「計算尺」の時代です。

 「計算尺」と言っても、今は使える人も少なくなったかも知れません。知らない人の方が多いのではないでしょうか。高校生の時に「計算尺」の資格試験を受けに他校に言った事がありました。何級を取ったかさえ記憶にありません。

 

『造詣』

 学校で勉強して優等生になり、知識が豊富な人であっても、また、資格を山ほど持っていても、造詣が深いとは、言えないと思っています。

 私のような者でも、宅建主任者(宅地建物取引主任者)や名前は失念しましたが、保険会社の代理店が出来る資格、交通誘導警備業務検定2級など、他にも幾つかの資格を持っていたのですが、今では資格証もどこかに行ってしまったのか、捨ててしまったのかも分かりません。確かまだ検定制度も無かった時に、品質管理の資格も取得した記憶があります。

 空手道では随分前に色々な資格をもらいましたが、今回書道の正師範も、一応資格と呼べるでしょう。

 現在では、知っているだけでは、自慢できるほどの能力でもなくなりました。

 先ほども書きましたが、情報過多の時代ですから、得ようとすると容易に知識を得る事はできます。

 しかし、問題は、必要な知識を選択する能力です。何を調べたいのか、何を知りたいのかが、先決です。

 その時その時に合わせた知識を得る事は、随分容易になりました。今述べたように、自分が調べたいことが明確である事が条件です。

 今まで言われていた、造詣が深いと言う概念も、少し変えなければならないかも知れません。

 造詣と言う言葉を、辞書で調べて見ますと、

 「学問・芸術・技術などについての深い知識やすぐれた技量。」(出典:大辞林第三版 三省堂.)

 と、ある程度深い知識があれば、造詣が深いと言われると思います。技量に関しては、今までと同じで、知っているだけでは技量があるとは言いません。

 であれば、知識と技量がどちらも伴っている事を、造詣が深いと言えば良いのではないかと、思っています。

 これは、聞きかじった薄っぺらい知識を切り売りしている、評論家と称している人達への苦言と捉えてもらいたいと思っています。

 評論家と称している人は、その評論を生業なりわいにしているのですから、少なくとも自分の発言には責任を持たなければなりません。と言うより、その影響を考えると、発信者には責任と覚悟がなければなりません。

 時代なのか、テレビの情報が一過性のものなのか、次から次から新しいニュースが入れ替わり立ち代わり、提供しなければならない中で、振り返る事も出来ないのかも知れませんが、あまりにも無責任にコメントしっぱなしのように映ります。

 造詣があると言うのは、知っていて、出来て、その言動に責任を持つ事だと思います。人間は正しい事を断言できるだけ、成長してはいないと思います。であれば、その責任とは、訂正する勇気だと思います。自分が言った事、した事に対して、間違いがあれば訂正する事だと思います。

 この訂正するというのは、新聞紙面の隅に小さく謝罪文を出す事で、済まされる物ではありません。少なくとも、その言動が訂正された事が広まるまで訂正を続けなければ意味がありません。

 それでこそ、学問や芸術、技術に対して批評や評論をする資格ができると思うのですが。最近は余りにも職業意識が無くなったように思えるのは、私が年老いたせいなのでしょうか。

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