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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【40】

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 今日の一文字は『尊』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三十九段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 往生

 
 徐々に秋に近づいている感じはします。日中はまだまだ油断できない暑さが続いています。

 それにしても、逃亡者が捕まりません。ひったくりには十分注意しましょう。

 昔は9月1日が始業式だった記憶があり、小学校の時は、8月31日に慌てて夏休みの宿題をさせられた記憶があります。その宿題も母がほとんどやっていたような、そんな小学生でした。

 今は、都道府県によって始業式が違うようです。隣の小学校の校庭では既に昨日からにぎやかな声が聞こえていたように思います。

 私の耳は一年中蝉が鳴いていますので、よく分かりませんが、そろそろ鈴虫やコオロギの鳴く音が聞こえてきそうです。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第三十九段 〔原文〕

 或人、法然上人に、「念佛の時、睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覺めたらむ程、念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。

 また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」とも言はれけり。是も亦尊し。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『  ある人が法然上人ほうにんしょうにんに「念仏を唱える時、睡魔に犯され勤行きんぎょうを怠りそうになる時、どうしたらこの支障を無くすことができるますか」と申し上げたら、「目が覚めている時に念仏を唱えなさい」と答えられた。大変意義深い言葉である。
 また、「極楽往生は、確かだと思へば確かである、不確かと思へば不確かである」これも含蓄のある言葉である。
 また、「疑いながらも念仏すれば極楽往生できる」とも言われた。これもまた重要な言葉だ。 』

 

『尊』

 この文章の中で、「尊」と言う言葉が3回言われています。色々な訳文が見られますが、私は素直に尊敬する意味には捉えませんでしたし、すぐれていると言う気持ちにもなれませんでした。

 尊しの意味は、「けだかい。高貴だ。尊い。価値が高い。すぐれている。貴い。」(出典 :学研全訳古語辞典 学研.)となっています。

 理由は、尊敬させるために法然上人が、答えたものではなく、また、質問した人も、法然上人の回答を尊敬する以前に、尊敬していると思えるからです。

 また、「すぐれている」と言うのは、すこし「上から目線」に聞こえてしまうような気がしました。

 そこで、法然上人の伝えたい事を考えて見ました。ですから、意義深く、含蓄があり重要だと読みました。

 親鸞聖人に「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」と言わしめた、法然上人の言葉です。その回答は安易なものでは無かったと推測しています。

 尊敬しないで、質問などする分けもありません。法然上人を試してどうしようと言うのでしょう。

 ちなみに、ここで法然上人と書いたり法然聖人と書いたりした事に深い意味はありません。しかし、統一しなかった理由は、宗教として書きたくなかったので、すこしバラバラに書いて見ただけです。

 法然上人の教えは、他力本願ですから、と言っても他力本願自体も、宗教的ですから、宗教に興味の無い人には俄かには理解し難い考えだと思いますので、少し私で解る範囲で説明を試みてみましょう。
 
 現在使われている言葉の「他力本願」は、本来の意味では無く、比喩的に使われる事が多いのですが、自分を頼まないで、人任せに物事をするような意味で使われています。
 
 本来、この他力とは、阿弥陀あみださまと言う仏様が、全ての人を救おうとして立てた願い(誓願)を信じて、あるいは頼って成仏する事を言います。

 これは、仏教の教えですから、理解は出来ても、納得できないかも知れません。まず、 成仏する事を救いだと思えるか否かによります。

 成仏と言うのは、

 (1)〘仏〙 煩悩を解脱し、悟りを開いて仏となること。得仏。

 (2)死んで、この世に執着を残さず仏となること。
 (3)死ぬこと。

 (出典:大辞林 三省堂.)

 と言う事らしいのですが、私など理屈っぽい人間は、(3)の死ぬことで十分だと思ってしまいます。

 しかし、なぜ死ぬことが救われるのか、腑に落ちません。

 仏と言う言葉も、覚者であるとか真理を悟った者、あるいは御釈迦様の事を指して言う場合もありますが、一般的には、死んだら仏になると言う、仏様の認識が強いと思います。

 仏教では、阿弥陀如来は、すべての仏様の先生に当たるそうです。その先生が、「信心を起こし、浄土へ生まれようとして念仏する者は、必ずそれを実現させようという願。」(出典:大辞林第三版 三省堂.)と誓われたと伝えられています。

 この事については、仏教では色々な解釈があると思いますが、平たく言うと、お釈迦様の先生であり、すべての仏、如来の先生である、阿弥陀如来が誓を立てて下さっているのだから、我々はこれを頼って、只管念仏を唱えれば、極楽浄土へ往生できる。と言うものです。

 ですから、これを他力、すなわち、自分の力ではなく、阿弥陀仏の力で往生できると考えるのが、他力本願と言われるものです。

 もっと難しく解釈されているものもありますが、難しいから良いとも思えません。特にここでは、他力本願と言う事が解れば、事足りると思って、なるべく簡単に済ませました。

 ですから、法然さんは、失礼、法然上人は、眠くなったら寝て、起きている時に念仏すれば良い。すでに、阿弥陀様が誓願されているのだから、成仏できますよ。と回答されたのだと思います。

 次の「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」そして「疑いながらも念仏すれば極楽往生できる」は、面白い回答だと思います。

 確信できる人は確信すればよいが、確信できなくても、疑いながらも念仏を唱えれば、往生できると、法然上人の阿弥陀如来への信頼を彷彿とさせる言葉で回答されています。

 ある人に、宗教心があるか尋ねた事があります。「残念ながら無い」と答えられましたが、私はその「残念ながら」と言う言葉に引っ掛かりを覚えました。

 戦後すぐだと記憶していますが、「信ずるものは誰も、皆救われん」と言う聖歌と言うのか、讃美歌と言うのか私には分かりませんが、キリスト教の歌を聞いた覚えがあります。

 法然上人の、阿弥陀仏にしても、その存在、その誓願、そして極楽浄土なるものを信じなければ、どれだけ有難い、言葉であっても心に響く事はありません。

 ですから、「残念ながら」なのでしょう。私も、同じです。般若心経に書いてあることは、理解出来ますし、納得もできます。

 しかし、阿弥陀如来の存在を容認するだけの知識もありませんし、現実の世界では認識できない単位(劫)などが書かれてありますので、拒絶反応が先に来てしまいます。

 正に、法然上人の言う「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」で私には確信が持てません。

 

『往生』

 先に、極楽浄土に往生する。と書きましたが、原文では、「往生」とのみ書かれています。しかし、この文章から、これは単なる死ぬ事では無く、極楽浄土に行くための念仏と捉える事ができます。

 まず、ここで、極楽浄土なるものを、調べて見ましょう。

 「阿弥陀仏のいる世界。西方十万億土の彼方にあり、まったく苦しみのない理想郷で、今も阿弥陀仏が法を説いているとされる。阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えると、死後ここに迎えられるという。西方浄土。極楽世界。極楽界。極楽安養浄土。」極楽。(出典:大辞林 三省堂.)

 と言うのが極楽浄土と言うものです。ここで「億土」と言う言葉に引っかかってしまうのですが、単純に距離ではなく、はるかかなたと理解した方がすっきりするでしょう。

 現実には存在する事も、存在しない事も証明する事が出来ない事を、信じるために、私は仮説を立てて見ました。

 一つは、無知ゆえに、盲目的に信じる人たちが、沢山いた時代と考える。もう一つは、あまりにも知的であるゆえに、理論的に解決できない事を、仏や神と言う、実存するかしないか、 考える糸口がないところに解答を求めた。

 今で言えば数学者や哲学者、物理学者のような人達が、答えがでないが考えた結果、推量したのかも知れません。

 私は知識と言うものは、断片的な知識しか持ち合わせる事が出来ないのが、人間であると思っています。

 それがアルベルト・アインシュタインであったり、ジョン・フォン・ノイマンであっても、あるいはスティーヴン・ウィリアム・ホーキングであったとしても、私などが言うのもおこがましい話ですが、人間である以上、断片的な知識で判断を迫られると思っています。

 ですから、死後の事を言われても、確認しようがありません。信じるか信じないかは、あなたにかかっています。

 今日も、同年代の空手の仲間の、偲ぶ会の案内が届きました。さて、彼は極楽浄土へ行けたのでしょうか。

 私もいずれは、往生するのですが、次の世界があるとは思わない事にしています。と言うより、確信に近い気持ちで、この世界は死と共に無くなると思っています。

 ですから、 次の世界で救われようとは思いません。それよりも今生きている、この一時ひとときを生きたいと思っています。

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