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文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【63】

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 今日の文字は『恋』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第六十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
 人の不幸は蜜の味と昔から言われますが、北海道の地震の影響で、液状化現象が起きている現状へ、わざわざ見物に行く人がいるようです。

 しかも、「何しているんですか」と聞いたところ「見ていたら悪いのか!」と逆上されたという。

 自分たちのしている事が、おかしいとは、思わないのですかね。しかも、親子連れもいるそうです。子供にどれだけの影響があるか、分かっているのかと思います。

 傷口に塩を塗るような行為をしていると、大人なら気が付いても良さそうですが、大人になるのが、随分遅くなっているような気がします。

 人の不幸に興味を持つと、いつか自分に降りかかってくるように思います。

 秋の長雨と言いますが、随分雨の日が続きます。明日は天気になりそうですが、もうすぐ運動会の季節になります。

 近くの小学校では毎日のように、子供たちが元気よく練習を重ねています。運動会当日は、晴れると良いですね。

 「勝つも負けるも時の運、正々堂々潔く、力の限り戦わん、うれしい今日の運動会」

 私が小学校の運動会の時に歌った歌です。60年も前の記憶ですから、ちょっと自信がありませんが、そんな記憶がよみがえります。

 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第六十二段 〔原文〕

 延政門院 いときなくおはしましける時、院へ參る人に、御言おことづてとて申させ給ひける御歌、

   ふたつ文字 牛の角文字 直ぐな文字 ゆがみもじとぞ君はおぼゆる

恋しく思ひ参らせ給ふとなり。

 

 
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『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『延政門院えんせいもんいんが幼い時に、詠んだ和歌で、院に来られる人に託して届けた。

 ふたつ文字 牛の角文字  直ぐな文字  ゆがみもじとぞ 君はおぼゆる

 恋しく思われたためである。 』
【参照】
  延政門院えんせいもんいん:1259-1332 鎌倉時代,後嵯峨天皇の第2皇女。
正元(しょうげん)元年生まれ。母は藤原公子。弘安(こうあん)7年内親王,准三宮(じゅさんぐう)となり,院号をうける。翌年出家した。元徳4=弘(げんこう)2年2月10日死去。74歳。名は悦子。法名は清浄智,遍照覚。
(出典:デジタル版 日本人名大辞典+Plu 講談社.)

 

 

『恋』

 恋は恋でも、幼い子供が、父を恋しく思う気持ちを、和歌に綴ったとあります。

 この延政門院えんせいもんいんの父は、後嵯峨天皇で、天皇が40歳前後に生まれたのですから、可愛がられて育てられたのでしょう。

 しかし、どういう事情で、父である後嵯峨天皇と、離れ離れに暮らしているのか、気になる所です。歴史に詳しくないので、この文章を見る限りでは離れて生活している事しか分かりません。

 今回も、想像を逞しくして、憶測、推測を試みたいと思います。

 後嵯峨天皇は、延政門院えんせいもんいんが13歳前後で逝去されていますので、例えば60歳を還暦、70歳を古希という呼び名を使うとすれば、10歳が「幼」、その上になりますと、14歳から15歳には「六尺」とありますから、この「幼」の事を言ったとしたら、この「恋しい」と言うのは、亡くなった父を思い詠ったのかも知れません。

 しかし、これは、おかしな憶測です。なぜなら、そんな和歌を人に託すとは思えません。ですから、後嵯峨天皇が健在の時に謡った和歌と思います。
 
 それにしても、なぜ暗号のような和歌にしたのでしょう。

 ふたつ文字は、「こ」、二の字に似ている。
 牛の角文字、「ひ」、角のようである。
 直ぐな文字は、「し」、毛筆で書くと真直ぐに書く場合が多い。
  ゆがみもじとぞ、「く」、くねっている文字。
 君はおぼゆる、「父の事を思う」

 となります。「」の中を繋げると、「こひしく、父の事を思う」。

 前にも、折句おりくと言う知的な遊びを紹介しましたが、その類でしょうか。

 勝手な考えかも知れませんが、普通は母親を恋しく想うと思いますが、母親とは一緒に暮らしていたのかも知れません。

 もう一度、憶測を重ねますと、このような遊びとはいえ、複雑な和歌を作れると言う事は、全くの幼児ではないのではないでしょうか。「幼」より小さい子の事を「三尺の童子」といいます。

 であれば、誰か大人の人が、代わりに作ったか、いや、やはり、「幼」の呼称のように十歳前後に成長した延政門院えんせいもんいんが、私には想像されます。

 先述したように、延政門院えんせいもんいんが13歳の時だとしたら、現在でも中学生ですから、賢い人であれば、和歌を作る事はそんなに無理な話でもないでしょう。と、言うより大人顔負けの俳句や和歌を作る人もいます。

 では、屁理屈を重ねて見ましょう。亡くなった人に渡す事は出来ないので、人に託すことは矛盾しているように、書きました。

 これが、仏前あるいは、霊前に置いてくるとしたら、どうでしょう。又は、墓前に供えてくると言う考えは、余りにも、邪推が過ぎるのかも知れません。

 しかし、こう考えると、筋は通ります。ようするに13歳とは言え、父親が年老いてから授かった子ですから、父親を相当に頼っていたか、あるいは今で言うファザコンであったかも知れないと思う事にします。

 その父親が亡くなったのですから、「願わくば、もう一度逢いたい」と思うのが、実に素直な気持ちです。

 しかし、置かれている立場や、相手が後嵯峨天皇だとすれば、簡単には自分の気持ちを表す事も、叶わなかったのかも知れません。

 ですから、和歌に託して、自分の気持ちを表現した可能性が考えられます。しかも、相手は、すでに亡くなっているのですから、その思いは深まるばかりでしょう。

 と、身勝手に想像してしまいました。

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