サイトアイコン 髓心

文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【84】

スポンサーリンク

 今日の文字は『きつ』です。行き詰るの詰ると言う漢字を行書で書きました。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第八十三段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
★ 『国際観艦式で韓国「抗日」旗 日本政府が抗議』
(株式会社 産経デジタル 2018/10/12 18:03)
 「政府は12日、日本が自衛艦派遣を見送った韓国での国際観艦式で、韓国艦艇に「抗日」を象徴する旗が掲揚されたことについて、外交ルートを通じ韓国側に抗議した。韓国は参加各国に自国と韓国の国旗のみを艦艇に掲げるよう要請したが自ら矛盾する対応をとり、政府は在韓、在日両大使館を通じ「残念だ」と申し入れた。」
 いつまで、韓国はこのような行動を取るのでしょう。理解に苦しみます。
 日本は、歴史認識でも、理論武装をして正確な根拠を示しながら、日本の主張を変えない事が重要だと思います。

 どうも朝から固い話になってしまいました。

 先週から延期になったいた、園児の運動会が開催された模様。天気になってよかったですね。みんな一生懸命です。いいですね。

 
 さあ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第八十三段 〔原文〕

 竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何の滯りかおはせむなれども、「珍しげなし。一の上にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相國しゃうごくの望みおはせざりけり。

 「亢龍かうりょうの悔いあり」とかやいふ事侍るなり。月滿ちてはけ、物盛りにしてはおとろふ。萬の事、先の詰りたるは、破れに近き道なり。

 

 
スポンサーリンク

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『竹林院入道左大臣殿は、太政大臣に成られるあたり、なんの障害もないのに、「ときめかない、左大臣で止める」と出家された。洞院左大臣殿は、感心し、自らも太政大臣を望まなかった。

 「亢龍かうりょうの悔いあり」と言う事がある。月は満ちては欠け、物事は盛りを過ぎると衰える。全ての事は先が詰まると、破綻に近づく理である。』

 

 

『詰』

 亢龍かうりょうの悔いあり」の意味を見て見ましょう。大辞林第三版では、「亢竜悔いあり」となっていますが、意味は、「栄華をきわめすぎた者は必ず衰えることがあるということ。」とあります。
 
 方丈記の冒頭に「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰の理しょうじゃひっすいのことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」と言う事と同じ意味であろうと思います。

 確かに世の中は、このようにして、諸行無常のとおり変化します。それが世の中の習いである事は、歴史を見ても明らかでしょう。

 ただ、この文章には話のすり替えがあると思います。なぜなら、「出世」「栄華をきわめすぎた者」との因果関係がありません。

 確かに左大臣から太政大臣に成ると言うのは、出世である事に違いがありませんが、栄華と言うのは、権力もありますが、富貴を極めて、贅沢三昧しなければ、衰退するとは限りません。

 もちろん、盛者必衰の理しょうじゃひっすいのことわりを言えば、必ず盛者は衰退する理が成立するのは、 人が必ず死ぬと言う事に他なりません。

 また、だからと言って、出世を諦める理由には、ならないと思います。

 ですから、竹林院入道左大臣殿が、出家の道を選んのは、世の中に対する絶望感か、それとも、出世街道を行く事に辟易へきえきしたのか、あるいは、仏道に目覚めたのか、それは分かりません。

 出世すると必ず衰退すると思ったのではなく、栄華をきわめても意味がないと思ったと言う事でしょう。

 出世してもその先は落ちぶれるのが分かっているから、出世街道から下りた。と言うのでは、あまりにも姑息な考えと思ってしまいます。

 この先に行っても、どうせ下るだけだと思うのと、先を極めても大したことはないと思うのとでは、雲泥の差があると思います。

 しかし、私は、まず極めてから、下りても良いのではと思います。極めると言うのは、言うほど簡単なものでもありません。

 月が満ちて、そして欠けていくような、自然の摂理でもありません。人の世の営みについて、自然の理を引き合いに出して、さも正しい考えとするのは、如何なものでしょう。

 また、「つきつればすなわく」と言うのは、『史記』蔡沢さいたく伝にある故事です。であれば、『月滿ちてはけ』と原文には書かず、「亢龍かうりょうの悔いあり」のように引用とした方が良かったと思います。これは蛇足ですが。

 徒然草を読んでいて、一番気になる点は、三段論法の大前提と結論との間に飛躍が見られる事です。

 ここでも、竹林院入道左大臣殿が太政大臣の椅子を蹴って、出家した事を、洞院左大臣殿も感銘を受けて同じようにした。とだけ書かれてあれば、その心情も理解できるでしょう。

 しかし、その後に「亢龍かうりょうの悔いあり」や月の満ち欠けを引用されると、冒頭の文章の意味が変わってきます。

 昔読んだ「自明性の時代」(出典:加藤諦三[1980])三笠書房.)の中に、野球の話があって、外野手がボールを捕球するという場面があったと思います。思いますと言うのは、本棚を探したのですが見つかりません。何度も引越しをしていますので、無くしたのでしょう。

 この話の内容は、このボールを捕球できない人と、捕球しない人の話です。

 捕球できない人は、下手で捕球できないのではなく、取れるかも知れないと最後まで諦めずに追う人と、途中でこれは取れないとボールを追わない人の話だったと思います。

 私は生き方としては、前者、すなわち、最後まで諦めない姿勢を好みます。確かに物事は、結果を見ない内に、結論が予測される場合が多いとおもいます。

 しかし、世の中は突然何が起こるか分かりません。奇跡と言えるのかも知れませんが、思わぬ結果になる事もあります。

 ですから、出世街道の途中で先を見越して下りるのではなく、ハッキリと自分の信念に従って、出世街道を行くことを止め、出家したと思いたいのです。

 最近は教育のお陰で、国民が賢くなったと思っているのでしょう。自明の理も、本当に解っているのか、結果を見ないで自己判断してしまう事も、また危険だと思います。

 自明の理にしても、ほんの僅かな知識で判断せざるを得ません。「説明したりするまでもなく明らかなこと」であったとしても、誰が明らかな事と判断できるのでしょう。

 また、原文には「先の詰りたるは」とありますが、これは、円錐形の中の部分ではなく、頂点と言う意味に解釈しました。

 と、ここで頷いて納得すると、術中に嵌ってしまいます。当時の文章の書き方なのかも知れませんが、あまりにも説得力がありません。多分先細りと言いたいのかも知れません。先細りと言うのは、前途が衰退していく様をいいます。

 色々な様子を上げて、頂点に達すると下るだけと言いたいのでしょうが、「亢龍」に説得力がありません。

 誰も、「亢龍」の意味である、天高く登り詰めた龍を見た事もありません。ですから、ピンとこないと思います。

 月の満ち欠けと、栄枯盛衰をなぞらえても、現在の人には、月の満ち欠けは、なぜ起こるのかも知っていますし、栄枯盛衰は、勝って兜の緒を締めよ、と言われた方が分かり易い言葉です。

 今回は、三大随筆とまで言われている、徒然草の文章に、私ごときがクレームを付ける事に終始してしまいました。なんと、畏れ多い事でしょう。
 
 クレームの付け所に問題があるのかも知れません。それとも、その時代では、それで読者が納得してくれたのかも知れません。

スポンサーリンク
モバイルバージョンを終了