中学校の三年間で習う、1110文字の内の5つの漢字を書いています。漢字は2020年度施行の学習指導要領に対応しています。
表示は左端が対象漢字、続いてカタカナは音読み、平仮名は訓読み、画数、部首の順です。そして、ことわざ・故事・文章などから一つを選んでその漢字の使われ方を示す事にしました。
ちなみに、文部科学省では学年ごとに習う漢字は、1学年250字程度から300字程度、2学年300字程度から350字程度、3学年では、その他の常用漢字(小学校で習う漢字1026文字以外の常用漢字1110文字の大体)と学年ごとに決まっていないようです。
971. [磨][マ][みが-く][画数:16画][部首:石]
『棚から落ちた達磨』
達磨さんが威張っていると思うのは、違うと思うのですが、確かに見た目には、威張っているように見えるのかも知れません。
そんな威張った人が落ちぶれると、ぶざまに見えるのかも知れません。威張っていたら、反感も買っていたでしょうから、その反動は大きいと思います。
地位が高いからとか、財力、権力があるからと、威張る人は居ます。
仮に地位が高い場合、あるいは権力を持っても、その地位や権力に値する働きをしてこその役割で、決して威張る必要など微塵もないと思います。特に財力は、そのおこぼれに預かろうとする輩がいるから、財力を持つ人が勘違いしてしまいます。
ちなみに、この達磨、中国の嵩山少林寺で面壁九年で有名な達磨大師の事では無く、おきあがりこぼしか、人形の達磨さんと思います。
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972. [魔][マ][画数:21画][部首:鬼]
『好事、魔多し』
何かを達成しかけると、決まって邪魔が入る。そんな意味で使う言葉です。
私は、邪魔とは思は無い方です。多分ですが、気の弛みと疲れから、思わぬ失態をやらかすのではないかと思っています。
前にもこのブログで書いたと思うのですが、どこか遠くに車で行った帰り、家の近くになれば、必ず気を引き締めるように習慣づけしていたと思います。
また仕事でも、最終段階に入れば、気持ちの高ぶりと共に集中力に欠ける事もあります。高ぶりと言うと語弊がありますが、要するに、捕らぬ狸の皮算用的な気持ちです。
ですから、好事が近づけば近づくほど、気持ちを引き締める事が大切だと思います。喜ぶのは達成してからでも遅くは無いと思います。
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973. [昧][マイ][画数:9画][部首:日]
『一行三昧』
「一つの修行法を一心に励むこと。」【出典:四字熟語辞典ONLINE.】この説明のもう一つは、念仏を唱える事ですから、仏教の修行方法だと思います。
修行は仏教で使われ、目的は悟りを開く事にあります。
字は違いますが、修業は、その他学問や、技術や技能の習得にあります。同じようにこの言葉が使えるのではないかと、思います。「一業三昧」と。
なぜ、一つの事をやらなければならないのか、なぜ一つに限定し集中する必要があるのか。
これは経験ですが、それしか見えない状態、言葉を変えて言うならば、馬鹿と呼ばれる程、その事に徹しなければ、得られるものも得られないと考えています。
人から見ると、馬鹿としか思えない状態になる事です。しかし、本人は馬鹿とも思っていない、兎に角真剣にその事に夢中になっていると思います。
私もそんな時期を何度か通過しました。冬の寒い時に外で、しかも裸で、両手に林檎を持ち、お腹に叩きつけ、林檎がぐしゃぐしゃになっているのを見ていた、母親が「あほ」と言って家の中に入って行きました。
巻き藁を突いて、皮が破け骨が見えている所に、その巻き藁の藁を詰めて止血し、まだ突いていた事もあります。
これは、今から考えると、本当の馬鹿です。よく破傷風にならなかったと思います。
しかし、大した才能もない者が何かを得ようとすると、そんな時期が必要だと思っています。
ただし、「一芸に秀でる者は多芸に通ず」にはなりません、少なくとも、私のような凡人は、一歩一歩学んで行かなければならないと思っています。
それでも、一つの道をある程度極めていくと、その過程で得られるものがありますから、違う道でも通用する事が多いと思います。ですから、「一芸の三昧は多芸の助けになる」と思っています。
誤解がないように、言いますが、空手道も書道も極めた分けではありません。前述したように、ある程度、という限定付きの極めに過ぎない事を明記しておきます。
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974. [埋][マイ][う-める][う-まる][う-もれる][画数:10画][部首:土]
『塩にて淵を埋むごとし』
やっても無駄な事の例えです。「骨折り損のくたびれ儲け」や「元の木阿弥」も同じ意味で使います。
こういう諺は、時代によってその環境に合わせて、誰かが云った事が残ったのでしょう。
と、言う事は、先人も無駄な事を一杯したのでしょうね。ですから、決して無駄が無駄に終わらないのが、実際に経験を積む事だと思います。
その時は、失敗に見えても、人生の中で次に何かに役立つ可能性はあると思います。
そんな失敗の連続だったような気がしています。
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975. [膜][マク][画数:14画][部首:肉]
『虚実皮膜』
「芸術は、虚構と現実の境界にあるということ。
「虚実」は虚構と現実。「皮膜」は皮膚と薄皮ということから、区別できないほどのほんの少しの違いという意味。
日本の江戸時代、浄瑠璃の作者の近松門左衛門が唱えた芸術論で、虚構と現実の境界にこそ真の芸術はあるとする論。」【出典:四字熟語辞典ONLIEN.】。
ここで芸術論と言う言葉が出てきました。私は芸術と言われているものには疎いのですが、この言葉通りだとすれば、嘘と真の間に芸術があるのかも知れません。
しかし、芸術論はこの近松門左衛門だけが云っているのではなく、色々な人が芸術について書籍を出しています。
結局、哲学者などがその実態を明らかにしようと試みますが、私が思うには、結論には至らなかったのではないかと思っています。
にも拘らず、芸術と言う名のもとに絵画、彫刻、書の類が横行しています。商業ベースに乗る事を考えて作品を造り出している人もいます。
私にとっては永遠のなぞかも知れませんが、少しでも理解したいと思っています。
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