空手道の名言 Part-1

 随分長い間、都道府県や市、区、及び部首を書いてきましたが、昨日でようやく完了しました。毎日のように書くと、少しは上手くなったような気がしています。錯覚かも知れませんが・・・・。

 それと、毎日のように筆を持つと、コツと言うのか、筆運びも身についてきているのでは、と思う事もあります。

 それでも、上手く書ける字と、いくら書いても上手く行かない字もあります。

 もう少し、勉強しなければなりません。

 さて、かなり遠ざかっていた、空手道に戻りたいと思います。

 今日は、私が道として取り組んでいる、松濤館流の創始である、富名腰義珍翁(船越義珍翁)の遺された名言を選ぶ事にしました。 

 「謹慎謙譲」と言う言葉は、富名腰義珍翁の遺された空手道教範に何度も出てきます。ただ、空手道最大の美徳と言う言葉をどこで遺されたかは定かではありません。

 しかし、私の脳裏に刻まているのは、「謹慎謙譲空手道最大の美徳」です。そして、このブログでも何度もそういう思いで載せてきました。

『髓心とは』)の中に『心と体』と言う項目があります。その中にこの言葉を載せています。

 ただ、インターネットで調べると、富名腰義珍翁の言葉としては見当たりません。私の師である故佐々木武先生から聞いた言葉かも知れませんが、もう調べる事はできません。

 もう一度、昭和十年五月二十五日発行の空手道教範を見ますと、第一篇総論第一章唐手と空手、空手の意義の項に『空手を學ぶ者は常に内に謙譲の心を養ひ、外に温和の態度を忘れてはならぬ。』と言う言葉が書かれています。あるいは、同じ第六章の精神修養としての項では『勇氣・禮節れいせつ廉耻れんち・謙譲・克己の美徳を磨いて』の言葉も見られます。

 また、この本の最後の修業者の心得では、『謹慎謙譲は「空手」研究者の最大美徳と知るべし。』とあります。

 さて、なぜこの言葉を重要視しているかと言うと、現在でも決して風化させたくないと思うからです。現在は、特に権利の主張が行き過ぎていると思う事が多々あり、もう少しバランスを取った方が人間社会に有益ではないかと思います。

 下の写真は、七十 ?歳の時のものです。

 今、バランスと書きましたが、最近とみにこのバランスが崩れているような気がします。行き過ぎているような。そんな気がしてなりません。

 もう何十年も前になりますが、空手道をしている人の性格についての研究データを見た事がありました。そこには、あまり良い事は書かれていなかったと思います。すなわち、横暴であるとか粗野であるとかの言葉が並んでいたように思います。これも、今となっては、どこに書かれていたかも定かではありませんが、私の心に刻まれています。

 やはり、人間は一人で社会を形成しているのでもなく、独りよがりな価値観であっても正義とは言えないと思う様になりました。そこで、よく使う言葉ですが「社会的な動物」である事を認識したと思います。

 そこで、最近折角書道をかじるようになりましたので、『謹慎謙譲空手道最大之美徳』と書いて見ました。

 『美徳』と言う言葉は、人それぞれだと思います。

 《ニューヨーク・タイムズ》のコラムニスト、デイヴィッド・ブルックスによると、履歴書に列挙すると見栄えのよいもの、そして追悼文向きのものだと言います。

 また、アリストテレス(BC384〜BC322) ギリシャの哲学者は、『最大の美徳は、他人の役の立てることだ』と。あるいは、『感謝の心は最大の美徳のみならず、あらゆるほかの美徳の両親なり。』と言っているのはマルクス・トゥッリウス・キケロです。(BC106~BC43)

 『人間として最大の美徳は、上手に金をかき集めることである。つまり、どんなことがあっても他人の厄介になるなということだ。』これは、『罪と罰』でお馴染みのフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー、ロシアの小説家の言葉です。

 『人間の最高の美徳は忍耐なり。』と言っているのは、マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(BC234~BC149)、『順境の美徳は節度であり、逆境の美徳は忍耐である。』と言ったのは、フランシス・ベーコン(1909~1992)。

 ここに挙げた人以外にも『美徳』については、色々な人がそれぞれの価値観で表現していると思います。これは、その時代が大きくかかわっていると考えています。

 ですから、『美徳』と言う言葉は、不滅の物ではなく、時代と共に変化して来たと思われます。また、これは、時代と言う流れではなく、大きくその人の環境に左右されるのではないでしょうか。

 私が『謹慎謙譲空手道最大の美徳』と考えるのも、そう言う意味で、ある人には座右の銘にもなるでしょうが、全く違うように考える人もいると思います。また、この『空手道最大の』と言うのは、あくまでも私が空手道を通じて見た世界ですが、空手道をしない人にも共感を持つ人もいるのではないかと思っています。

 そして、『美徳』などと言うものには縁遠い、いや人生にそんな物はいらないと思っている人もいるでしょう。

 にも拘らず、私はこの言葉に人の人たる所以を感じています。

 まず、『美徳』と言う言葉を紐解いて見ましょう。精選版 日本国語大辞典では、うつくしい徳性。道徳にかなった立派な行ない。また、よい心。と説明しています。しかし、徳性とか道徳と言われても、人によっては、ピンとこないのでは無いでしょうか。

 私は、歴史的に見て人間と言うのは、人間全体にとって利益のある考えと、長期を展望して不利益になる事を、短絡的に自己を軸にして利益と考える人が居ると思うのです。

 例えば戦争などは、ある人に取っては有益であっても、ある人にとっては無益、いや害以外の何ものでもない事を、さも大切な事のように思える人が居る事です。

 それが人間であるとしたら、と言う仮定ですが、やはり人間としてもとらない事を実践するのを『美徳』と言うのは如何でしょう。

 悖らいない、すなわち堂々と胸を張れる事、そう言えば『恥じる文化』と言われた日本人特有の考えかもしれませんが、それが『美徳』なのかも知れません。

 つらつらと書き綴りましたが、『謹慎謙譲』は、二つの言葉を合わせています。『謹慎』とは、日常使われる、出勤・登校などを禁止する処分の事では無く、言動を控えめにすると言う意味に捉えています。

 ですから、語源・由来は、「江戸時代から明治時代初期にかけて存在していた行動の自由を制限する自由刑の一種」であっても、私は身を慎む意味で捉えています。所謂出すぎない。そんな所です。

 また、『謙譲』は、「へりくだりゆずること。自分を低めることにより相手を高めること。また、控えめであるさま。謙遜 (けんそん) 。」などとデジタル大辞泉(小学館)には説明されていますが、これもへりくだるとか、自分を低める事も必要ないと思っています。

 そんな意味には考えていません。単に譲るべきところは譲る。ようするに、忖度そんたくする必要もへりくだる必要もなく、同じレベルでの対処をし、決して上から目線で物を言わない事と理解しています。

 ただし、目上の人に対しての礼儀は失わないようにしないと、謹慎謙譲にもなりません。いま、目上と書きましたが、目下にも同僚にも同じ事が言えると思っています。上の図のように節度と節度の間に礼儀はあると思います。

 今流行りの何でも自由、平等とは考えていません。蛇足になりますが、へりくだることと礼儀は、本質的に異なると言う事を付け加えたいと思います。

 そして、現代のように自己主張の過ぎる時代には、特に『謹慎謙譲』と言う言葉は美徳と言うより、人間としての品位を表すためにも是非必要かと思っています。