『基本と原理原則』....<6/6>
あまり、こだわる必要もないのですが、便宜上「かた」と「かたち」を分けて考えると整理がつきやすいと考えています。また、古武道では勢法と書いて「かた」と読んでいるところもあるようで、この呼び方の方が、より内容を表しているように思います。
「型」をなぜ基本とするのか
型をなぜ空手道における基本とするかを検証してみます。
まず、作者はこれを後世に残すために作ったものかと疑問をもってみます。私は、技は瞬間の閃きと検証によって発明あるいは発見されるものだと思っています。もちろんこの閃きは、幾つかの生死を越えた戦いと、武術的才能によって生み出されるものでしょう。そして、作者はこの体験を再現し経験とするための努力をした結果が「型」であると思うのです。このことは、科学や化学と同じ過程をへて仮説から実証へと変化して形作られるものだと思います。科学には書き記すという行為と実験が再現性を可能にしていますが、科学での書き記す行為は、身体操作では非常に難しい行為です。
この発見あるいは発明を単なる思い付きに終わらせないで、常に再現させようとするところに「技」や「術」が生まれたと考えるのが順当ではないでしょうか。
したがって、剣道・柔道・合気道などは、一つの技ごとに固有の名前が付けられ、「形」と呼ばれているのはそのためかも知れません。
しかし、空手の場合は、発祥が沖縄であり、歴史的にも中国武術の影響が大きかったと思えます。中国では太極拳を代表するように、違う「技」の連続で一つの「様式」を形成し、練習体系として確立しています。太極拳・形意拳・白鶴拳などがよい例です。
今述べたような経緯で体系化された空手の「型」には、様式を形成するためのつなぎの部分があると考えています。具体的には、技による捌きや攻撃あるいは防御のための足運びとは別に、演武線と言われる様式にそった運足をみることができます。後述しますが、「型」の要素には空手を武術として、あるいは体育として十分な身体操作が含まれています。そして、「型」の演武をやることは、心の分野にも大きな影響を与えます。
ここに、空手道修行の中心として「型」を存在させる意味があると確信しています。