『組手考察』....<10/10>
何事にも目付のかわらざる所、
能々吟味あるべきもの也。
この文については様々な解釈があり、『観見』二つの言葉を、本質を見抜く『観』、見かけ上っ面を見る『見』と言った解釈や言葉の通り具体的に目の付け様として解釈しているものもあります。
私の体験からすると、この目付は心と身体が一つの所に囚われない具体的な目の使い方であると思っています。
目は心の窓と言いますから、心が情報を得る、いや心が一番影響の受けやすい目の働きを抑制しなければならないのです。
私が表現するなら、髓心という心の状態は全てを包含する状態であり、全く不動のものであるのです。数学的に表現するなら、座標軸を持たない場所、すなわち象限そのものであるということです。同じ自分の心ではあるのですが、我心は、何かの刺激に直ぐに反応して心を動かし、その動かされたものに心を囚われる習性があります。一瞬であれ永い時間であれ、留まることによって、髓心本来の自由闊達な動きが制約されるのです。したがって『髓心』が主体となった状態で組手を行うことの重要性と生きるための智慧についての関係が「不動智神妙録」には伝えられている言えます。
最後に「不動智神妙録」の写本の一つには
「心こそ心迷はす心なれ、心に心心ゆるすな」
と結んでいます。